岩井温泉からの続き。
岩井温泉からほど近い場所にあった銅山跡というのに興味を惹かれた。こんな人里近いところに?
鉱石はトロッコで岩井まで運び、そこから岩美駅まで軽便鉄道が伸びていたというが、
もちろん今では鉄道はなく、バスの便もごくわずか。バス停から歩いて行けるのかもわからないので
いわみガイドクラブのガイドさんに案内してもらうことにした。
岩井屋に車で迎えに来てくれていざ出発!ガイドの湯浅さんは資料もいろいろ準備してくれていた。
20分ほど走ったところに岩美(荒金)鉱山があった。あれ、今も大きな施設があるじゃないの??
聞けば、この施設は「旧岩美鉱山坑廃水処理場」で、坑道から湧き出してくる酸性の水を処理する
施設なのだとか。
敷地の一角にぽかりと開いたトンネル、ここが坑道(大切坑)の入口。
腰をかがめてしまうような高さの坑道は、入口から数十メートルは整形されたトンネルだが
その奥は岩肌にモルタルを吹付けただけで、さらに奥の立入禁止となっているエリアは全くそのまま。
岩盤を発破で崩しながら掘り進んだ跡が生々しい。。。
かつてはここにトロッコのレールが敷かれ、鉱石を運び出していたが、すぐに錆びてしまうので
栗の木のレールが使われていたそうだ。
穴の奥からは少なくない量の水がどんどん流れ出している。
この岩美鉱山から鉱石をトロッコで岩井まで運び、岩井町営軌道で岩美駅まで、そして姫路港から船で
九州の佐賀関精錬所へ運んでいたという。ほぉ、佐賀関精錬所か。以前見たことがあるな。
来る途中にこれだと教えられたトロッコ跡。へぇ、いかにもな風情で残っているんだな。
岩美鉱山は8世紀の始めに銅床が発見されたという記録があり、古い歴史をもつ。
本格的に銅が採掘されだしたのは1889(明治22)年頃から。大正15年~昭和10年頃が
岩美鉱山の最盛期で、年間生産量は950~1429トンに及んだ。
選鉱場や製材所、インクラインなどの施設を備え、最大530数名もいたという従業員のための、
病院、演芸場、社宅街も擁する鉱山街ができていた。
しかし1943(昭和18)年に起きた鳥取大震災により坑道や堰堤が破壊され、朝鮮人労働者を含む
多数の人が亡くなる大被害を受け、鉱山は衰退、1971(昭和46)年に閉山した。
戦後に慰霊碑が建てられ毎年慰霊祭が行われているという。
案内して下さった岩美町鉱害防止協会の山本さん曰く、昭和56年頃までは選鉱場や社宅など
鉱山の施設が残っていたが、60年頃から取り壊されたらしい。
閉山後も、銅鉱山特有の重金属を含む強い酸性の坑廃水が出るといい、この施設で消石灰を入れて
中和し無毒化している。
沈殿させた汚泥は乾燥させたあと大江山精錬所へ運びステンレスやニッケルの合金の原料に使っているとか。
大江山ニッケル専用線も少したどったことがあったな。
坑道見学というレアな体験と興味深いお話をいろいろ聞かせて頂いた。ありがとうございました!!
次に訪れたのは、さらに山一つ越え10分ぐらい車で走ったところにある「銀山」という場所。
地名が示す通り銀鉱山があったのだ。隣の島根県には世界遺産になっている「石見銀山」があるが
それとは別モノである。
この円柱は銀山神社の鳥居の一部だった石なのだとか。
ガイドさんに連れられあるお宅の庭に入って行ったかと思えば、裏山にぽっかりと坑道の入口(間歩)が。
この間歩は私有地内にあるが、見学できるようにここのお宅の方が整備して下さっているのだとか。
天然の洞窟かと思うような岩の穴は入口近くまで水がたまり、中へ入ることはできない。
岩美銅山よりも古いということは想像がつくが、はたして、銀山の最盛期は文禄の頃だとか。
山の上から水を流して表面の土を取り除こうとしたところ間歩が陥落してしまい、衰退したらしい。
近くには金鉱山跡もあり、ガイドの湯浅さん曰く、金も銀もよく似たところから出るそうだ。
地下のマグマの活動により熱水が金属を溶かし込みながら上昇し、岩盤の隙間で結晶化したものが熱水鉱脈鉱床。
まさに地球の恵み。火山や温泉と鉱山はつながりが深いのだ。
これは鉱石を精錬したあとのカス。
美しい蔵。
扉には水をモチーフにした鮮やかな鏝絵が。
このお宅も銀山に関連していた方なのだろう。
こうして話を聞きながら歩いていると、銀山が賑わっていたのはほんのひと昔前のような気がしてきた。
面白いなぁ。
しかし、今回いわみガイドクラブにお願いして連れてきてもらいガイドもしてもらったのでいろんなことを
知ることができたが、個人で見に来たとしても全く何がなんだか分からなかっただろう。
2時間3000円のガイド料はとっても値打ちがあったな。ありがとうございました!
続く。
岩井温泉からほど近い場所にあった銅山跡というのに興味を惹かれた。こんな人里近いところに?
鉱石はトロッコで岩井まで運び、そこから岩美駅まで軽便鉄道が伸びていたというが、
もちろん今では鉄道はなく、バスの便もごくわずか。バス停から歩いて行けるのかもわからないので
いわみガイドクラブのガイドさんに案内してもらうことにした。
岩井屋に車で迎えに来てくれていざ出発!ガイドの湯浅さんは資料もいろいろ準備してくれていた。
20分ほど走ったところに岩美(荒金)鉱山があった。あれ、今も大きな施設があるじゃないの??
聞けば、この施設は「旧岩美鉱山坑廃水処理場」で、坑道から湧き出してくる酸性の水を処理する
施設なのだとか。
敷地の一角にぽかりと開いたトンネル、ここが坑道(大切坑)の入口。
腰をかがめてしまうような高さの坑道は、入口から数十メートルは整形されたトンネルだが
その奥は岩肌にモルタルを吹付けただけで、さらに奥の立入禁止となっているエリアは全くそのまま。
岩盤を発破で崩しながら掘り進んだ跡が生々しい。。。
かつてはここにトロッコのレールが敷かれ、鉱石を運び出していたが、すぐに錆びてしまうので
栗の木のレールが使われていたそうだ。
穴の奥からは少なくない量の水がどんどん流れ出している。
この岩美鉱山から鉱石をトロッコで岩井まで運び、岩井町営軌道で岩美駅まで、そして姫路港から船で
九州の佐賀関精錬所へ運んでいたという。ほぉ、佐賀関精錬所か。以前見たことがあるな。
来る途中にこれだと教えられたトロッコ跡。へぇ、いかにもな風情で残っているんだな。
岩美鉱山は8世紀の始めに銅床が発見されたという記録があり、古い歴史をもつ。
本格的に銅が採掘されだしたのは1889(明治22)年頃から。大正15年~昭和10年頃が
岩美鉱山の最盛期で、年間生産量は950~1429トンに及んだ。
選鉱場や製材所、インクラインなどの施設を備え、最大530数名もいたという従業員のための、
病院、演芸場、社宅街も擁する鉱山街ができていた。
しかし1943(昭和18)年に起きた鳥取大震災により坑道や堰堤が破壊され、朝鮮人労働者を含む
多数の人が亡くなる大被害を受け、鉱山は衰退、1971(昭和46)年に閉山した。
戦後に慰霊碑が建てられ毎年慰霊祭が行われているという。
案内して下さった岩美町鉱害防止協会の山本さん曰く、昭和56年頃までは選鉱場や社宅など
鉱山の施設が残っていたが、60年頃から取り壊されたらしい。
閉山後も、銅鉱山特有の重金属を含む強い酸性の坑廃水が出るといい、この施設で消石灰を入れて
中和し無毒化している。
沈殿させた汚泥は乾燥させたあと大江山精錬所へ運びステンレスやニッケルの合金の原料に使っているとか。
大江山ニッケル専用線も少したどったことがあったな。
坑道見学というレアな体験と興味深いお話をいろいろ聞かせて頂いた。ありがとうございました!!
次に訪れたのは、さらに山一つ越え10分ぐらい車で走ったところにある「銀山」という場所。
地名が示す通り銀鉱山があったのだ。隣の島根県には世界遺産になっている「石見銀山」があるが
それとは別モノである。
この円柱は銀山神社の鳥居の一部だった石なのだとか。
ガイドさんに連れられあるお宅の庭に入って行ったかと思えば、裏山にぽっかりと坑道の入口(間歩)が。
この間歩は私有地内にあるが、見学できるようにここのお宅の方が整備して下さっているのだとか。
天然の洞窟かと思うような岩の穴は入口近くまで水がたまり、中へ入ることはできない。
岩美銅山よりも古いということは想像がつくが、はたして、銀山の最盛期は文禄の頃だとか。
山の上から水を流して表面の土を取り除こうとしたところ間歩が陥落してしまい、衰退したらしい。
近くには金鉱山跡もあり、ガイドの湯浅さん曰く、金も銀もよく似たところから出るそうだ。
地下のマグマの活動により熱水が金属を溶かし込みながら上昇し、岩盤の隙間で結晶化したものが熱水鉱脈鉱床。
まさに地球の恵み。火山や温泉と鉱山はつながりが深いのだ。
これは鉱石を精錬したあとのカス。
美しい蔵。
扉には水をモチーフにした鮮やかな鏝絵が。
このお宅も銀山に関連していた方なのだろう。
こうして話を聞きながら歩いていると、銀山が賑わっていたのはほんのひと昔前のような気がしてきた。
面白いなぁ。
しかし、今回いわみガイドクラブにお願いして連れてきてもらいガイドもしてもらったのでいろんなことを
知ることができたが、個人で見に来たとしても全く何がなんだか分からなかっただろう。
2時間3000円のガイド料はとっても値打ちがあったな。ありがとうございました!
続く。