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Channel: まちかど逍遥
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旧第五十九銀行本店本館(青森銀行記念館)

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2019年10月の弘前の続き。

宿に荷物を置いたら、建築めぐりにでかけよう。
弘前は、藩主津軽信枚が17世紀に計画開発した弘前城城下町をベースとし、戦災も免れ今に至る。
廃藩置県当初は「弘前県」、県庁も青森市でなく弘前に置かれたというほど、地方の中枢的な役割を担ってきたまちであり、
文化水準も高かったとか。文明開化の波にもいち早く乗り洋風建築の近代施設がたくさん造られた。
それらの建物は、今も弘前城の周辺をはじめとしてとてもたくさん残っている。

まずは、1879(明治12)年に建てられた旧第五十九銀行本店本館。


シンメトリーで総2階建ての堂々たるルネッサンス風建物は、石造の洋館に見えるが、何と木造である。
壁は下地の板の上に瓦を貼り、その上に漆喰を塗り重ねた土蔵造りだとか。


屋根の軒まわりにぐるりと回った欄干のようなものは「バラストレード」と呼ぶらしい。中央の塔屋がおしゃれ!


中へ入ると・・・木製のカウンターがそのまま残り、銀行時代の雰囲気を髣髴とさせる。カウンターの奥の営業室は
よくある吹き抜けの大空間でなく天井が張られており、実用的な造りと言えるだろうか。落ち着いて業務ができそうだ。


カウンターの一枚板や丸柱は青森産のけやき材が使われている。


第五十九銀行は現在の青森銀行の前身のひとつ。1943(昭和18)年に県内の5銀行が合併して青森銀行となっている。
1965(昭和40)年に弘前支店が新建物へ移転したあと、取り壊される予定だったのを、市民の強い要望により、曳き家して
保存されることとなった。そして1972(昭和47)年に重要文化財の指定を受けている。壊さなくてよかったなぁ!
その後建築当時の姿に復元修復され、青森銀行記念館として一般公開されている。


建設当初のザクロの(?)擬法珠。


この建物を建てたのは、堀江佐吉という大工棟梁である。政府の進める北海道開発に従事したときに洋風建築に出会って以降、
1907(明治40)年に亡くなるまでに、洋風和風あわせて1500棟を超える建築を手がけたと言われ、
まさに弘前の近代のまちを造った人である。
東京からはるか離れた弘前で、大工棟梁がこんな本格的な洋風建築を明治初期からいくつも建てたとは、驚き!
明治の擬洋風建築にありがちなぎこちなさは感じられない。センスのある人だったのだな!

「5」と「9」がレイアウトされた第五十九銀行のシンボルマークは、堀江佐吉の子息、堀江幸治氏によるデザイン。
これは、ここではなく同行青森支店の建物の階段に取付けられていたもの。


二階へ上がってみよう。空中に軽やかに伸びる階段。


ザクロのがオリジナルだとしたら、こちらの擬法珠はあとから復元されたものということかな。これもなかなか素敵だ。


こちらは小会議室。


ここの天井には金唐革紙が使われていた。もちろん現在は復元というかプリントだが、オリエンタルな模様がインパクト大。




こちらの大会議室の格天井の格間にも金唐革紙が貼られていた。金唐革紙が使われているのはここと小会議室と頭取室のみ。
もともとヨーロッパで装飾に使われていた高価な「金唐革」。その後日本で、エンボスをつけた紙に柿渋や漆などを塗って
金唐革を模した「金唐革紙」が開発され輸出までしている。日本人はこういうことは本当に上手い。


金唐革紙が使われた施設は多くないが、これまでに数箇所で見たことがある。旧蔵内邸、呉の入船山記念館
岡谷の旧林家住宅、北海道栗山町の小林家住宅、神戸の移情閣など。


この階段があの展望台の塔屋へ上るためのものだろうが、案の定立入禁止。


ここは第2応接室だったかな・・・




金唐革紙が使われたもう1ヶ所の部屋、1階の頭取室は非公開だった。残念~~
欄間のガラス越しにチラッとだけ見えた。


続く。

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