2019年夏の台南の続き。
珊瑚潭と呼ばれる烏山頭ダムの湖は、やはり地上からではその繊細なレースのような姿を見ることができないが、
美しい水面がはるか遠くまで続き全く天然の湖のような趣を見せる。
ダムといえば黒部ダムのようなコンクリートの分厚い壁をイメージするが、ここではそのようなものは見当たらず、
緩やかな傾斜をもった緑の築堤が湖に沿って伸びているのみ。これが、ダムの水をせき止めている堰堤である。
東洋一の規模のダムを造るに当たって與一は、セミ・ハイドロリック・フィル工法という、日本はおろか世界でも
この規模のダムに適用されたことのない工法を採用した。
堰堤の基部に打ったコンクリートコアの両側に土砂を積み上げていき、土砂の中の粘土を中心に集めて堤を構築するという工法。
さらにこの地に適した形に独自にアレンジしている。
この工事を行うために外国製の大型土木機械を大量に投入したことも画期的であった。
「台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯」の本には、工事の様子がこと細かに描かれている。
烏山頭にはこの工事に関わる職員が住む村ができ、小学校や娯楽場まであった。鉱山町と同じような雰囲気だろう。
波乱万丈、紆余曲折、悲喜こもごも、あっただろうが、10年の歳月をかけて大工事は完成した。
そして、水は乾いた嘉南平原にはりめぐらされた水路を駆け巡ったのだ。あぁどれほどの感慨だっただろうか。。。
堰堤に立ち西の方を眺めると緑色の田んぼが当たり前のように広がっている。しかしこのダムができるまでは
当たり前じゃなかったのだ。
堰堤から下りたところに、殉工碑が立っている。これは工事中の事故や病気で亡くなった従業員と家族の慰霊のための碑である。
この塔の基部に取り付けられたプレートには、犠牲者134名全員の氏名が刻まれている。
人をいっさい差別しない與一の信念により、台湾人と日本人を区別することなく、亡くなった順に並べられているという。
そこに刻まれた名前を眺めていたら、なんだか、その人たちが知っている人のように思えてくる。
・・・というか、個人個人の存在がリアルに感じられてくるのだ。。。
旧送水口あたりに戻ってきた。あれ、そう言えば、園内全体を歩いたと思うのに八田與一の銅像が見当たらなかったなぁ?
どこにあるんだろう。銅像なんだからよく見えるところにあるはずだけど・・・八田技師紀念室で尋ねると、
行き止まりだろうと思って行かなかった堰堤の一番端の方にあるらしい。え~~っ、そうなの?
帰りのバスの時間まであと30分ほど。烏山頭に来てあの像を見ずに帰るのはありえない。見に行こう。
八田技師銅像と書かれた案内板の指す方へずっと登って行くが沿道にも見当たらない。分かれ道に来たがどちらとも書いていない。
えっ!?どこ?もしかして給水廠の中?そんなはずはない、一般の人が見られる場所のはずだ。焦ってきた。。。
上へ上る道を駆け上がると、機関車の展示があった。これは堰堤を造るために大内庄から大量の土砂を運んだ機関車だ。
しかし今はゆっくり見ている時間がない。さらにその先へ走る・・・
あ~~っ、あった!あれだ!!堰堤の一番端、いちばん奥に、八田與一は座っていた。
普通の銅像のように高い台座でなく座布団一枚ぐらいの平たい台座、また座像なので背が低く、離れて見ると分からないほど
まわりの風景になじんでいる、いや、一体化している。烏山頭の堰堤の一部になっているかのように。。
この像は嘉南大圳の完成により恩恵を受けた嘉南の農民たちによって建てられ、敗戦で日本が引き揚げた後も長年にわたり
守り続けられているという。嘉南大圳の工事は様々な犠牲は伴ったものの台湾の近代化を推し進め経済的な豊かさをもたらし
現在の台湾の発展につながる大きな仕事であった。八田與一はもちろん、高い思想を持ってこの工事を決断した当時の総督や
民政長官、技術者や職員たち。
皆、台湾の将来を真剣に考え、見たことも聞いたこともない巨大な事業に真っ向から取り組んだのだ。
当時の空気を想像するだけで鳥肌が立つ。。。あぁ、来てよかった。
あっ!!帰りのバスまで時間がもうないんだった!!これを逃すと次は2時間半後。堰堤を駆け下りて出口へ向かう。
そうだ、八田紀念園区(八田與一記念公園)もあったな・・・見たかったが・・・さすがに今から2時間半も居られない(汗)
台南から1時間で行けることが分かったし、次の機会にこちらをメインでもう一度あらためて来ることにしよう。
善化駅へ戻ってきた。さて今から、麻豆と佳里、両方行けるかな?
続く。
珊瑚潭と呼ばれる烏山頭ダムの湖は、やはり地上からではその繊細なレースのような姿を見ることができないが、
美しい水面がはるか遠くまで続き全く天然の湖のような趣を見せる。
ダムといえば黒部ダムのようなコンクリートの分厚い壁をイメージするが、ここではそのようなものは見当たらず、
緩やかな傾斜をもった緑の築堤が湖に沿って伸びているのみ。これが、ダムの水をせき止めている堰堤である。
東洋一の規模のダムを造るに当たって與一は、セミ・ハイドロリック・フィル工法という、日本はおろか世界でも
この規模のダムに適用されたことのない工法を採用した。
堰堤の基部に打ったコンクリートコアの両側に土砂を積み上げていき、土砂の中の粘土を中心に集めて堤を構築するという工法。
さらにこの地に適した形に独自にアレンジしている。
この工事を行うために外国製の大型土木機械を大量に投入したことも画期的であった。
「台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯」の本には、工事の様子がこと細かに描かれている。
烏山頭にはこの工事に関わる職員が住む村ができ、小学校や娯楽場まであった。鉱山町と同じような雰囲気だろう。
波乱万丈、紆余曲折、悲喜こもごも、あっただろうが、10年の歳月をかけて大工事は完成した。
そして、水は乾いた嘉南平原にはりめぐらされた水路を駆け巡ったのだ。あぁどれほどの感慨だっただろうか。。。
堰堤に立ち西の方を眺めると緑色の田んぼが当たり前のように広がっている。しかしこのダムができるまでは
当たり前じゃなかったのだ。
堰堤から下りたところに、殉工碑が立っている。これは工事中の事故や病気で亡くなった従業員と家族の慰霊のための碑である。
この塔の基部に取り付けられたプレートには、犠牲者134名全員の氏名が刻まれている。
人をいっさい差別しない與一の信念により、台湾人と日本人を区別することなく、亡くなった順に並べられているという。
そこに刻まれた名前を眺めていたら、なんだか、その人たちが知っている人のように思えてくる。
・・・というか、個人個人の存在がリアルに感じられてくるのだ。。。
旧送水口あたりに戻ってきた。あれ、そう言えば、園内全体を歩いたと思うのに八田與一の銅像が見当たらなかったなぁ?
どこにあるんだろう。銅像なんだからよく見えるところにあるはずだけど・・・八田技師紀念室で尋ねると、
行き止まりだろうと思って行かなかった堰堤の一番端の方にあるらしい。え~~っ、そうなの?
帰りのバスの時間まであと30分ほど。烏山頭に来てあの像を見ずに帰るのはありえない。見に行こう。
八田技師銅像と書かれた案内板の指す方へずっと登って行くが沿道にも見当たらない。分かれ道に来たがどちらとも書いていない。
えっ!?どこ?もしかして給水廠の中?そんなはずはない、一般の人が見られる場所のはずだ。焦ってきた。。。
上へ上る道を駆け上がると、機関車の展示があった。これは堰堤を造るために大内庄から大量の土砂を運んだ機関車だ。
しかし今はゆっくり見ている時間がない。さらにその先へ走る・・・
あ~~っ、あった!あれだ!!堰堤の一番端、いちばん奥に、八田與一は座っていた。
普通の銅像のように高い台座でなく座布団一枚ぐらいの平たい台座、また座像なので背が低く、離れて見ると分からないほど
まわりの風景になじんでいる、いや、一体化している。烏山頭の堰堤の一部になっているかのように。。
この像は嘉南大圳の完成により恩恵を受けた嘉南の農民たちによって建てられ、敗戦で日本が引き揚げた後も長年にわたり
守り続けられているという。嘉南大圳の工事は様々な犠牲は伴ったものの台湾の近代化を推し進め経済的な豊かさをもたらし
現在の台湾の発展につながる大きな仕事であった。八田與一はもちろん、高い思想を持ってこの工事を決断した当時の総督や
民政長官、技術者や職員たち。
皆、台湾の将来を真剣に考え、見たことも聞いたこともない巨大な事業に真っ向から取り組んだのだ。
当時の空気を想像するだけで鳥肌が立つ。。。あぁ、来てよかった。
あっ!!帰りのバスまで時間がもうないんだった!!これを逃すと次は2時間半後。堰堤を駆け下りて出口へ向かう。
そうだ、八田紀念園区(八田與一記念公園)もあったな・・・見たかったが・・・さすがに今から2時間半も居られない(汗)
台南から1時間で行けることが分かったし、次の機会にこちらをメインでもう一度あらためて来ることにしよう。
善化駅へ戻ってきた。さて今から、麻豆と佳里、両方行けるかな?
続く。