吉野からの帰り、吉野線のちんたら具合と寒さに途中下車をいっさいあきらめ、乗り鉄に徹する。
阿部野橋行き急行なので橿原神宮前駅での下車もめんどくさくなり(苦笑)、
実家からいつでも行けるわ、とスルー。
なんだかズボラ旅になってきて、これではイカンと道明寺線への乗り替えを決意。
目指すは柏原南口駅。前回は柏原まで行ってしまったので下車しなかったのだ。
柏原南口駅は大和川の堤防の高さと同じレベルにある。
堤防下を走る国道25号をまたぐレンガ積橋台と玉石積みの法面が、歴史の古さを物語る。
柏原南口駅は1924(大正13)年に開業。しかしこの路線はもっと古く、1898(明治31)年に
河陽鉄道が柏原〜富田林間を開通させたのに始まる。
柏原から折り返して来た電車が堤防の踏切を通り過ぎるのを撮ろうと思ったのに、
国道を横断する押しボタン式信号がなかなか変わらず・・・・行ってしまった(涙)
ここは近鉄大阪線に一番近接していて、安堂駅まで歩いて5〜6分。柏原〜堅下よりも近い。
国道の一段下の道を歩いていくと、「築留二番樋」というレンガ積みの小さな取水口があった。
「山本樋」と彫られた笠石がそばに残されていた。
大和川の付け替え後農業用水路となった長瀬川と玉串川の、これが源流らしい。
このレンガ造の樋門は明治40年ごろに作られたものだというが、付け替えは約300年前。
付け替え後すぐはもっと簡易な樋があって改修したということだろうか、それともそれまでは他の場所の
樋が使われていたのだろうか。
中甚兵衛の銅像や、こんな「西暦1703年代大和川流域の図」があった。黄色のエリアが旧川筋である。
川違えにより沿岸の村々では長年苦しんだ水害から解放され流路は田畑に生まれ変わり新たな産業が発達した。
この地図に書かれた丸囲みの村々の名を見ていると、大和川の付け替えがどれほどこの大阪平野に大きな影響を
及ぼしたか、ということに思いを馳せずにはいられない。
阿部野橋行き急行なので橿原神宮前駅での下車もめんどくさくなり(苦笑)、
実家からいつでも行けるわ、とスルー。
なんだかズボラ旅になってきて、これではイカンと道明寺線への乗り替えを決意。
目指すは柏原南口駅。前回は柏原まで行ってしまったので下車しなかったのだ。
柏原南口駅は大和川の堤防の高さと同じレベルにある。
堤防下を走る国道25号をまたぐレンガ積橋台と玉石積みの法面が、歴史の古さを物語る。
柏原南口駅は1924(大正13)年に開業。しかしこの路線はもっと古く、1898(明治31)年に
河陽鉄道が柏原〜富田林間を開通させたのに始まる。
柏原から折り返して来た電車が堤防の踏切を通り過ぎるのを撮ろうと思ったのに、
国道を横断する押しボタン式信号がなかなか変わらず・・・・行ってしまった(涙)
ここは近鉄大阪線に一番近接していて、安堂駅まで歩いて5〜6分。柏原〜堅下よりも近い。
国道の一段下の道を歩いていくと、「築留二番樋」というレンガ積みの小さな取水口があった。
「山本樋」と彫られた笠石がそばに残されていた。
大和川の付け替え後農業用水路となった長瀬川と玉串川の、これが源流らしい。
このレンガ造の樋門は明治40年ごろに作られたものだというが、付け替えは約300年前。
付け替え後すぐはもっと簡易な樋があって改修したということだろうか、それともそれまでは他の場所の
樋が使われていたのだろうか。
中甚兵衛の銅像や、こんな「西暦1703年代大和川流域の図」があった。黄色のエリアが旧川筋である。
川違えにより沿岸の村々では長年苦しんだ水害から解放され流路は田畑に生まれ変わり新たな産業が発達した。
この地図に書かれた丸囲みの村々の名を見ていると、大和川の付け替えがどれほどこの大阪平野に大きな影響を
及ぼしたか、ということに思いを馳せずにはいられない。