八女の続き。
許斐本家を出たらもう日は傾いていたが、まだまちの東半分を見ていない(汗)。菊池温泉の宿に日が暮れる前にたどり着ける時間にここを出たい。
今日は八女に丸一日あてた超余裕なスケジュールのつもりだったが、やっぱり時間が足りないなぁ(汗)
しかしそもそも熊本から八女に来るよりも、先週大川と併せて来るべきだったのだ(爆)
とりあえず代表的な町家としてマップに載っている諸富家まで行ってみようと早足で歩き出す。
間口の大きな白壁の商家がずらりと向かい合って並ぶ壮観なまちなみは往時の栄華を偲ばせる。
しかしこれほどまとまって残っているのは本当にすごいなぁ!
横町町家交流館、という公開された町家があったのでちょっと入ってみよう。
ここは元造り酒屋の建物をきれいに整備した公共施設で、休憩所、案内所、展示場などを備えている。
座敷に上がると、そこの欄間がこんなデザイン。これは瀬田の唐橋だとか。もう一枚は竹生島だったかな。
どちらも滋賀県の風景で、何で八女と関係あるのか!?と驚いたのだが、近江商人が出入りしていたからとか
言われていたような(うろ覚え・・・汗)。
ここの通り土間を奥へ抜けると広い空き地があった、もともとはここにも醸造蔵などが建っていたのだろう。
片隅にはレンガの六角形の煙突の残骸が残っていた。
この敷地はさっきの許斐本家と接しており、奥に建つ矢部屋のマーク入りの蔵もよく見えた。
往還を北へ、東へ。
おや、町家の側面の壁に、石がぺたぺたと貼ってあるな。貼るというより、間をあけて埋め込んである。
「平石張り」と言うようだ。聞いてはいたが見るのは初めてかも。
緑っぽい石は緑泥片岩、青石だ。但し和歌山や愛媛で見られるものほど鮮やかな色ではない。
秩父から和歌山、徳島、愛媛などには三波川変成帯と呼ばれる構造帯が貫いており、青石の産地となっている。
以前2度にわたりめぐった愛媛県の佐田岬半島は半島全体が青石でできていて、青石パラダイスだった。
三波川変成帯は豊後水道の対岸の大分県までわずかに達しているものの、九州の西側に青石があるなんて
思ってもいなかった。しかし許斐本家の壁やこの貼り石など、この地方でも建築資材として使われていたのだな。
居蔵造の商家が雰囲気のいい飲食店になっているところもあり、八女に泊まってこういうところで
一杯飲むのもよかったなぁ~と思う(言うほど飲めないけど。笑)。
平入りの町家は多くない。
産業のあるまち、特産品のあるまちの景観は美しいなぁ。
ここにも貼り石が。壁の下部のみであり、雨水から壁を保護する目的だったのだろうとは思うが、
それなら石を整形してなまこ壁のように隙間なく貼ればよいだろうが、そうしていないところを見ると
途中からは装飾的な意味合いが強くなったのだろうと想像。
大きなサイズの石の板はギョッとするような迫力がある。どのくらいの厚みがあるのだろう。
ここが諸富家。この家ではなまこ壁と貼り石が併用されている。道路側はなまこ壁とし、貼り石は側面のみ。
ここは紙卸商だったが現在はしもたやのようだ。
なまこ壁の出隅部分のおさまりが左右で違うのは遊びだろうか。
引き返して戻りしな、木造アーケードの土橋商店街を発見、廃墟かと思ったら何軒か営業しているようだ。
ここは土橋八幡宮の境内らしく、戦後に闇市として栄え今もその雰囲気を残すレトロな空間。しかし
今どきのおしゃれなお店もオープンしているようで面白いなぁ~!時間があれば探索してみたかった。。。
さぁいよいよタイムリミット!!急いで駐車場へ戻ろうと早足になりながらも、行きとは違う道を選ぶ(笑)
すると・・・おや、あのバッテンは、踏切??こんなところに鉄道が通っていたっけ??
あぁ、これは、廃線跡か!
あぁ、そうするとこの広場や、観光案内所や八女伝統工芸館のあるこの場所は駅跡だったのか!
説明板も設置されていた。ここは筑後福島駅跡で、レールを利用した藤棚など、鉄道の痕跡を残した公園と
して整備されたという。うかつにも見逃すところだった・・・
戦前から着工されていた国鉄矢部線は1945(昭和20)年に完成、戦争終結4ヶ月後に運行開始された。
羽犬塚から黒木を結んでいたが、貨物取扱が順次廃止され、1985(昭和60)年に全線廃止。
移築されて物置として使われている旧筑後福島駅舎。鉄道の記憶を消してしまわずこういう形でも
残してあるのは、地域の歴史を伝える上では大事なことだな!
さぁ、いよいよタイムリミット。見残しはあるが仕方ない、また次の機会としよう。
続く。
許斐本家を出たらもう日は傾いていたが、まだまちの東半分を見ていない(汗)。菊池温泉の宿に日が暮れる前にたどり着ける時間にここを出たい。
今日は八女に丸一日あてた超余裕なスケジュールのつもりだったが、やっぱり時間が足りないなぁ(汗)
しかしそもそも熊本から八女に来るよりも、先週大川と併せて来るべきだったのだ(爆)
とりあえず代表的な町家としてマップに載っている諸富家まで行ってみようと早足で歩き出す。
間口の大きな白壁の商家がずらりと向かい合って並ぶ壮観なまちなみは往時の栄華を偲ばせる。
しかしこれほどまとまって残っているのは本当にすごいなぁ!
横町町家交流館、という公開された町家があったのでちょっと入ってみよう。
ここは元造り酒屋の建物をきれいに整備した公共施設で、休憩所、案内所、展示場などを備えている。
座敷に上がると、そこの欄間がこんなデザイン。これは瀬田の唐橋だとか。もう一枚は竹生島だったかな。
どちらも滋賀県の風景で、何で八女と関係あるのか!?と驚いたのだが、近江商人が出入りしていたからとか
言われていたような(うろ覚え・・・汗)。
ここの通り土間を奥へ抜けると広い空き地があった、もともとはここにも醸造蔵などが建っていたのだろう。
片隅にはレンガの六角形の煙突の残骸が残っていた。
この敷地はさっきの許斐本家と接しており、奥に建つ矢部屋のマーク入りの蔵もよく見えた。
往還を北へ、東へ。
おや、町家の側面の壁に、石がぺたぺたと貼ってあるな。貼るというより、間をあけて埋め込んである。
「平石張り」と言うようだ。聞いてはいたが見るのは初めてかも。
緑っぽい石は緑泥片岩、青石だ。但し和歌山や愛媛で見られるものほど鮮やかな色ではない。
秩父から和歌山、徳島、愛媛などには三波川変成帯と呼ばれる構造帯が貫いており、青石の産地となっている。
以前2度にわたりめぐった愛媛県の佐田岬半島は半島全体が青石でできていて、青石パラダイスだった。
三波川変成帯は豊後水道の対岸の大分県までわずかに達しているものの、九州の西側に青石があるなんて
思ってもいなかった。しかし許斐本家の壁やこの貼り石など、この地方でも建築資材として使われていたのだな。
居蔵造の商家が雰囲気のいい飲食店になっているところもあり、八女に泊まってこういうところで
一杯飲むのもよかったなぁ~と思う(言うほど飲めないけど。笑)。
平入りの町家は多くない。
産業のあるまち、特産品のあるまちの景観は美しいなぁ。
ここにも貼り石が。壁の下部のみであり、雨水から壁を保護する目的だったのだろうとは思うが、
それなら石を整形してなまこ壁のように隙間なく貼ればよいだろうが、そうしていないところを見ると
途中からは装飾的な意味合いが強くなったのだろうと想像。
大きなサイズの石の板はギョッとするような迫力がある。どのくらいの厚みがあるのだろう。
ここが諸富家。この家ではなまこ壁と貼り石が併用されている。道路側はなまこ壁とし、貼り石は側面のみ。
ここは紙卸商だったが現在はしもたやのようだ。
なまこ壁の出隅部分のおさまりが左右で違うのは遊びだろうか。
引き返して戻りしな、木造アーケードの土橋商店街を発見、廃墟かと思ったら何軒か営業しているようだ。
ここは土橋八幡宮の境内らしく、戦後に闇市として栄え今もその雰囲気を残すレトロな空間。しかし
今どきのおしゃれなお店もオープンしているようで面白いなぁ~!時間があれば探索してみたかった。。。
さぁいよいよタイムリミット!!急いで駐車場へ戻ろうと早足になりながらも、行きとは違う道を選ぶ(笑)
すると・・・おや、あのバッテンは、踏切??こんなところに鉄道が通っていたっけ??
あぁ、これは、廃線跡か!
あぁ、そうするとこの広場や、観光案内所や八女伝統工芸館のあるこの場所は駅跡だったのか!
説明板も設置されていた。ここは筑後福島駅跡で、レールを利用した藤棚など、鉄道の痕跡を残した公園と
して整備されたという。うかつにも見逃すところだった・・・
戦前から着工されていた国鉄矢部線は1945(昭和20)年に完成、戦争終結4ヶ月後に運行開始された。
羽犬塚から黒木を結んでいたが、貨物取扱が順次廃止され、1985(昭和60)年に全線廃止。
移築されて物置として使われている旧筑後福島駅舎。鉄道の記憶を消してしまわずこういう形でも
残してあるのは、地域の歴史を伝える上では大事なことだな!
さぁ、いよいよタイムリミット。見残しはあるが仕方ない、また次の機会としよう。
続く。