有田の続き。
さて、深川製磁の向かいには有田異人館(元田代家西洋館)という建物があった。前回こんな建物があった記憶がないなぁ?
工事中だったのかな。きれいすぎるので復元建物なのかと思いながら入ってみたのだが、古い建物を曳き家し、
復原工事で元の姿によみがえらせたのだという。1876(明治9)年築で、佐賀県最古の擬洋風建築だとか。
ボランティアガイドの方が他のお客に説明をしているのを横で一緒に聞く。今や「有田」の名は世界的に有名となって
いるが、有田焼を作り始めたのはこの小さな谷沿いのほんの狭いエリアなのだという。
1600年ごろ朝鮮から連れて来た陶工李三平が、この近くの泉山というところで磁器の原料である陶石を発見し、
有田で白磁の磁器が作られ始めた。明から清への移り変わりの混乱期に景徳鎮の技術者が日本へ渡ってきたことにより、
磁器に模様が描かれるようになる。1600年後半には輸出を開始、伊万里の港を経由したため「伊万里焼」の名で輸出された。
有田では焼き物を作るのに徹底した分業体制を取っていたが、それは技術の漏洩対策だったと聞いて目からうろこ。
いや耳からうろこか!?
柿右衛門の赤絵がヨーロッパで絶賛され、明治になって開国すると外国から陶磁器を買いつけに有田へ来るようになる。
豪商田代助作がそういった外国商人を迎え接待するために建てたのがこの建物である。
田代助作の父親の田代紋左衛門は、佐賀藩から許可を得て有田焼の貿易を一時独占的に行っていたのだとか。
螺旋階段を上って2階へ行ってみよう。曲線使いが優しい螺旋階段。
全体が広間となっていた。床は畳敷き。和洋折衷の空間だ。
天井からぶら下がったシャンデリアの台座は何と磁器製で、全面に細かい模様が施された豪華絢爛なもの。
さすが、有田ならではのインテリアだな!
天井に貼られた模様入りの壁紙は、物入れの中で見つかった建築当初のものと思われる木版の唐紙の復元品。
これが古い唐紙の本物。丸に十字は島津ではなく、「田」の字を表す田代家の紋だとか。
この山あいの小さな町が明治の昔から世界的に注目されていたことがしのばれる建物だった。
まわりの建物を少しだけ見て歩く。
この付近では川と山に挟まれ敷地の奥行があまりないせいだろうが、どこの店も間口がとても広く重厚で風格がある。
輸出で莫大な利益をあげたのだろう。有田異人館に置いてあった本を見ると、非公開の住宅の中はすごいみたいだ。。。
壁をしっくいで塗りこめた蔵造りが多いのは、大火があったせい。有田では文政の大火で町の建物のほとんどが
焼失してしまったため、復興建物はやはり火事に強い蔵造りとしたのだ。
しかし下見板張りの洋館風の建物もちょこちょこもあり、目を引く。
ここの塀は鉱滓レンガだろうか。
焼き物のまちならではの風景も面白い。これはよくある感じのショーウィンドーだが、一見石に見える土台の部分を
よく見ると、何と焼き物でできているのだ。精巧に石風の模様をつけてある。
これは昔よくあった、塀の上のしのび返し(最近はほとんど見かけないが・・・)。尖ったガラス片を埋め込んであるのが
一般的だが、こちらでは焼き物の割れた破片を埋め込んである。いいなぁ~~
あぁ、もうタイムリミット。今日は玄海町に泊まるので、日が落ちる前にたどり着きたい。
車でゆるゆると走って行くと、上有田駅近くに立派な蔵造りの三階建がずらり。あぁ、またこの辺り見れなかったなぁ~
また来ないと(苦笑)。まだまだ見るものはあるな!
続く。
さて、深川製磁の向かいには有田異人館(元田代家西洋館)という建物があった。前回こんな建物があった記憶がないなぁ?
工事中だったのかな。きれいすぎるので復元建物なのかと思いながら入ってみたのだが、古い建物を曳き家し、
復原工事で元の姿によみがえらせたのだという。1876(明治9)年築で、佐賀県最古の擬洋風建築だとか。
ボランティアガイドの方が他のお客に説明をしているのを横で一緒に聞く。今や「有田」の名は世界的に有名となって
いるが、有田焼を作り始めたのはこの小さな谷沿いのほんの狭いエリアなのだという。
1600年ごろ朝鮮から連れて来た陶工李三平が、この近くの泉山というところで磁器の原料である陶石を発見し、
有田で白磁の磁器が作られ始めた。明から清への移り変わりの混乱期に景徳鎮の技術者が日本へ渡ってきたことにより、
磁器に模様が描かれるようになる。1600年後半には輸出を開始、伊万里の港を経由したため「伊万里焼」の名で輸出された。
有田では焼き物を作るのに徹底した分業体制を取っていたが、それは技術の漏洩対策だったと聞いて目からうろこ。
いや耳からうろこか!?
柿右衛門の赤絵がヨーロッパで絶賛され、明治になって開国すると外国から陶磁器を買いつけに有田へ来るようになる。
豪商田代助作がそういった外国商人を迎え接待するために建てたのがこの建物である。
田代助作の父親の田代紋左衛門は、佐賀藩から許可を得て有田焼の貿易を一時独占的に行っていたのだとか。
螺旋階段を上って2階へ行ってみよう。曲線使いが優しい螺旋階段。
全体が広間となっていた。床は畳敷き。和洋折衷の空間だ。
天井からぶら下がったシャンデリアの台座は何と磁器製で、全面に細かい模様が施された豪華絢爛なもの。
さすが、有田ならではのインテリアだな!
天井に貼られた模様入りの壁紙は、物入れの中で見つかった建築当初のものと思われる木版の唐紙の復元品。
これが古い唐紙の本物。丸に十字は島津ではなく、「田」の字を表す田代家の紋だとか。
この山あいの小さな町が明治の昔から世界的に注目されていたことがしのばれる建物だった。
まわりの建物を少しだけ見て歩く。
この付近では川と山に挟まれ敷地の奥行があまりないせいだろうが、どこの店も間口がとても広く重厚で風格がある。
輸出で莫大な利益をあげたのだろう。有田異人館に置いてあった本を見ると、非公開の住宅の中はすごいみたいだ。。。
壁をしっくいで塗りこめた蔵造りが多いのは、大火があったせい。有田では文政の大火で町の建物のほとんどが
焼失してしまったため、復興建物はやはり火事に強い蔵造りとしたのだ。
しかし下見板張りの洋館風の建物もちょこちょこもあり、目を引く。
ここの塀は鉱滓レンガだろうか。
焼き物のまちならではの風景も面白い。これはよくある感じのショーウィンドーだが、一見石に見える土台の部分を
よく見ると、何と焼き物でできているのだ。精巧に石風の模様をつけてある。
これは昔よくあった、塀の上のしのび返し(最近はほとんど見かけないが・・・)。尖ったガラス片を埋め込んであるのが
一般的だが、こちらでは焼き物の割れた破片を埋め込んである。いいなぁ~~
あぁ、もうタイムリミット。今日は玄海町に泊まるので、日が落ちる前にたどり着きたい。
車でゆるゆると走って行くと、上有田駅近くに立派な蔵造りの三階建がずらり。あぁ、またこの辺り見れなかったなぁ~
また来ないと(苦笑)。まだまだ見るものはあるな!
続く。