志田焼の里博物館からの続き。
博物館の受付で、この施設について簡単に書かれたパンフレットなどはないですか?と聞いたら、
おばちゃんちょっとあたふたした感じで、本しかないんです、と。この下に資料館があるのでそちらに何か
あるかもしれません、と言うので行ってみることに。
さっき車から見えた三連(四連か!?)の木造の蔵が道路ぎわにどかんと建っており、向かいには民家の形をした
志田焼資料館がある。この国道498号線は長崎街道とか。
かなり大きな蔵。というか、倉庫。先にこちらへ入ってみよう。
中は現在販売所になっているのだが、意外と天井が低い。それは内部が二層になっているからで、まるで天井裏のような
2階には火鉢がぎっしりと詰め込まれているのが隙間から見える。
現在は展示的に置いてあるのだろうが、当時は出荷前の製品がこの倉庫にあふれんばかりに詰まっていたのだな。
隣の棟には当時製造していた火鉢や花瓶などの展示もあった。見たことのないようなモダンな柄のものもあり、
時代に合ったものを作ろうとしていたことがうかがえる。ただ火鉢という装置自体が現代の家に合わなくなっていたのだ。
デッドストック品のいくらかは販売もされていた。レトロ風インテリアにどう?お値段は結構したが・・・(汗)
次に向かいの資料館に行ってみる。
ここはさっき見た志田焼の里博物館になっている工場をもともと運営していた、志田陶磁器株式会社の事務所であり、
この建物は何と旧武雄警察署の部材の払い下げを受けて大正時代に建てられたものなのだとか。
玄関から上がっておっちゃんの案内について1階のギャラリーを抜け、階段を上り鍵を開けてさらに上へ。
えー、資料館ってこんな奥にあるの(苦笑)
明かりをつけてくれて中に入ると、鍋島藩の許可証や、主に藩時代の古い製品がケースの中に展示されていた。
案内してくれた方によると、志田では18世紀初頭から焼き物が作られ、18世紀中頃~1900年の間に
磁器生産が始まった。美術品ではなく大衆向けの器、とりわけ皿が大量に製造されてきた。
一般に古伊万里と呼ばれるものの中には志田で作られたものもあるという。この地方の焼き物は皆伊万里の港から
出荷されたため伊万里焼と呼ばれ、有田駅から出荷されるようになると有田焼と呼ばれた。
しかし有田や伊万里の問屋が安値で買い叩くので、自分たちの製品を自分たちで売るため、1909(明治42)年に
地元有力者の出資によりこの志田陶磁器株式会社が設立された。大正時代には近隣の窯を吸収して自前の工場での
製造も始める。昭和30~40年代頃まではフル稼働していたが、昭和59年に全ての製造を終了した。
現在この会社では製造はしておらず卸売業のみだそう。
最晩年は自社製品の販売による売り上げは5%にも満たなかったというが、従業員が年金をもらえるようになるまでと、
細々と製造を続けたのだとか。何と優しい会社。。。
そして玄関脇にある階段から、主屋の2階にある座敷も見せてもらった。
ここには、東海道五十三次をモチーフにした直径45cmの大皿がずらりと展示されており、圧巻!
これはそれほど古いものではないらしいが名工の作で、バラバラでは出回っているが全て揃っているのが価値があるという。
階段が広く、料亭の宴会場のようだな。
近くにあったタイル文字が書かれた看板建築(?)。ここ、ねじねじサインが出ているから現役の理容室なの!?
どこが店なんだろう・・・
志田をあとにして走り出したとき、すごく立派な茅葺き民家が目に入った。スト~~ップ!!
引き返して近寄り眺めると、この地方独特の屋根の形で、ほんとに美しい。
これは上から見るとコの字型になったくど作りで、コの字の背の部分が正面側になっていると思われる。
これはさっき志田焼資料館の廊下の窓から見えた民家。裏側に2つの棟が並んでいる。
くど造りは2つの棟が正面側に来ているところもあるのかもしれないが、結構このような台形のフォルムの方がよく見かける。
庭に人がいたら声をかけたかったが、わざわざピンポンしに行くのはちょっとためらわれて・・・遠巻きに眺めるのみ。
あぁ、こういう地方色豊かな風景の中を旅するのはほんとに楽しいなぁ!
続く。
博物館の受付で、この施設について簡単に書かれたパンフレットなどはないですか?と聞いたら、
おばちゃんちょっとあたふたした感じで、本しかないんです、と。この下に資料館があるのでそちらに何か
あるかもしれません、と言うので行ってみることに。
さっき車から見えた三連(四連か!?)の木造の蔵が道路ぎわにどかんと建っており、向かいには民家の形をした
志田焼資料館がある。この国道498号線は長崎街道とか。
かなり大きな蔵。というか、倉庫。先にこちらへ入ってみよう。
中は現在販売所になっているのだが、意外と天井が低い。それは内部が二層になっているからで、まるで天井裏のような
2階には火鉢がぎっしりと詰め込まれているのが隙間から見える。
現在は展示的に置いてあるのだろうが、当時は出荷前の製品がこの倉庫にあふれんばかりに詰まっていたのだな。
隣の棟には当時製造していた火鉢や花瓶などの展示もあった。見たことのないようなモダンな柄のものもあり、
時代に合ったものを作ろうとしていたことがうかがえる。ただ火鉢という装置自体が現代の家に合わなくなっていたのだ。
デッドストック品のいくらかは販売もされていた。レトロ風インテリアにどう?お値段は結構したが・・・(汗)
次に向かいの資料館に行ってみる。
ここはさっき見た志田焼の里博物館になっている工場をもともと運営していた、志田陶磁器株式会社の事務所であり、
この建物は何と旧武雄警察署の部材の払い下げを受けて大正時代に建てられたものなのだとか。
玄関から上がっておっちゃんの案内について1階のギャラリーを抜け、階段を上り鍵を開けてさらに上へ。
えー、資料館ってこんな奥にあるの(苦笑)
明かりをつけてくれて中に入ると、鍋島藩の許可証や、主に藩時代の古い製品がケースの中に展示されていた。
案内してくれた方によると、志田では18世紀初頭から焼き物が作られ、18世紀中頃~1900年の間に
磁器生産が始まった。美術品ではなく大衆向けの器、とりわけ皿が大量に製造されてきた。
一般に古伊万里と呼ばれるものの中には志田で作られたものもあるという。この地方の焼き物は皆伊万里の港から
出荷されたため伊万里焼と呼ばれ、有田駅から出荷されるようになると有田焼と呼ばれた。
しかし有田や伊万里の問屋が安値で買い叩くので、自分たちの製品を自分たちで売るため、1909(明治42)年に
地元有力者の出資によりこの志田陶磁器株式会社が設立された。大正時代には近隣の窯を吸収して自前の工場での
製造も始める。昭和30~40年代頃まではフル稼働していたが、昭和59年に全ての製造を終了した。
現在この会社では製造はしておらず卸売業のみだそう。
最晩年は自社製品の販売による売り上げは5%にも満たなかったというが、従業員が年金をもらえるようになるまでと、
細々と製造を続けたのだとか。何と優しい会社。。。
そして玄関脇にある階段から、主屋の2階にある座敷も見せてもらった。
ここには、東海道五十三次をモチーフにした直径45cmの大皿がずらりと展示されており、圧巻!
これはそれほど古いものではないらしいが名工の作で、バラバラでは出回っているが全て揃っているのが価値があるという。
階段が広く、料亭の宴会場のようだな。
近くにあったタイル文字が書かれた看板建築(?)。ここ、ねじねじサインが出ているから現役の理容室なの!?
どこが店なんだろう・・・
志田をあとにして走り出したとき、すごく立派な茅葺き民家が目に入った。スト~~ップ!!
引き返して近寄り眺めると、この地方独特の屋根の形で、ほんとに美しい。
これは上から見るとコの字型になったくど作りで、コの字の背の部分が正面側になっていると思われる。
これはさっき志田焼資料館の廊下の窓から見えた民家。裏側に2つの棟が並んでいる。
くど造りは2つの棟が正面側に来ているところもあるのかもしれないが、結構このような台形のフォルムの方がよく見かける。
庭に人がいたら声をかけたかったが、わざわざピンポンしに行くのはちょっとためらわれて・・・遠巻きに眺めるのみ。
あぁ、こういう地方色豊かな風景の中を旅するのはほんとに楽しいなぁ!
続く。