飫肥の続き。
飫肥藩伊東家5万1千石の城下町。江戸時代初期のまちなみがほとんどそのまま残る飫肥城下町は
1977(昭和52)年に伝統的建造物郡保存地区(伝建地区)に選定されている。
今回の目的の旧山本猪平家は、廻船業などで財をなした飫肥の豪商の本宅として1907(明治40)年
頃に建てられたもので、附属屋も含めほぼ完全な形で残る。
インスタだったかフェイスブックだったかで見たこの敷き瓦が気になって調べたら旧山本猪平家のものと分かり
実際にこの目で質感を確かめたいと思い飫肥へやって来た。
一見網干の山本邸などでも見られる、珉平焼系統の淡陶の最初期のタイルと同じデザインで、印刻も施されているのだが、
最初に見たときから珉平焼ではないと思った。珉平焼の緑色はもっと鮮やかで透明感があって軽やか。
ベタッとした質感はむしろ瀬戸っぽい気がしたので。瀬戸蔵の武藤さんに尋ねたところ、
やはり瀬戸のもので、明治40年頃の加藤治右衛門の窯で作られたものだと教えて頂いた。
「うちも所蔵しています。尾張戸神社にも使われていますよ」。あっ!そうか!
急いで資料を見ると、ちゃんと載ってるじゃないの!迂闊だった~~。
飫肥に行く予定を決めてから、日南市にも問い合わせをして建物のことを聞いてみたら、旧山本猪平家は
伝建地区選定のときに調査して市の指定文化財になったが、敷瓦について詳しいことは分かっていないという。
それで瀬戸蔵の武藤さんに教えて頂いたことを伝えると、担当の方は喜んでくれて、山本邸の文化財指定の
時の資料などを、観光マップと共に送って下さった(笑)。
さて、9時になるので早足で前まで行ってみると、まだ準備中のようだ。あれっ、ここは9時半オープン?
門から中を覗いてみると、「どうぞ、いいですよ~。バタバタしてますけど」と。おじゃましまーす!
門越しにいきなり見えているアプローチの染付敷瓦。うぉぉ。
シンプルな柄、小ぶりなサイズの染付敷瓦が二列に並んでいる。
銅板転写による模様だろうが、長年踏まれ続けた敷瓦は表面の釉薬がペキペキと剥がれていて痛々しい。
中には表層がほとんど全部剥がれ落ちてコンクリート平板のようになってしまっているものも・・・(苦)
門から建物の入口までのアプローチにも、同じタイプの敷瓦が、飛び石のように配されていた。
前方左手に入口、右手には主屋が伸びている。
犬走りの部分にも敷瓦がポツポツと埋め込まれていた。
1997年に空き家になったあと修理を行い当初の姿に戻したという。アプローチや犬走りはその時に
コンクリートで固めたのだろうか。
そして、、、建物の入口から中を見やると、、、おおおぉ~~!これか!!
緑釉のかかった蓮華模様の敷瓦が、通り土間のような通路の中央部に3列並べられている!
こちらも擦れて色が剥げているものが多いが、釉薬が厚く密着度が高いのだろう、さっきの染付の
ようにペキペキと剥がれてはいない。
人が立ち止まる両端部が丸く膨らんだ形からは、来訪者を迎え入れる気持ちが伝わってくる。
淡路で作られた最初期のマジョリカタイルを見た瀬戸の職人が、対抗意識を燃やして本業敷瓦バージョンを
作ったのだろう。雰囲気はずいぶん違うが、どっしりと厚みのある敷瓦はやっぱり存在感がある。
こういうのを見ていると、当時技術やデザインの新しい情報が次々と入ってくる中で、各地それぞれ試行錯誤、
切磋琢磨していた様子が目に浮かんでとても感慨深いなぁ。
そして玄関へ。その床には、、、
おぉ、これまた素晴らしい印花文の敷瓦が四半貼りされている!うぉぉ。。この広い目地に萌える~~
そして上がり框の下、蹴上の部分にはさっきの通路のと同じ緑釉の敷瓦が一列貼られている!
床とは違い踏まれることがないので、こちらのは状態がすばらしくいいなぁ。つやつや!!
もとは皆こんなきれいだったんだな!
床のはよく見かける印花文で、型押しで陰刻の模様をつけたあとに白い釉薬をかけたものだが、さらに茶色で
着色してあるので模様がくっきりしている。
しかし、、、小さい!!測ってみると15cm角だった。5寸か!
この模様は瀬戸の古い8寸(24cm)角の敷瓦の代表的な模様だが、こんな小さいのは見たことない。
ミニチュアみたいでかわいいなぁ~~~
さっきの通り土間の敷瓦も、ネット上の写真で見て想像していたよりも小さく5寸サイズで、意外で驚いた。
また実は、1ヶ月ほど前にタイル友の会のメンバーから、それと同じタイルがヤフオクに出ているとの
情報があり、実物を間近で見てみたいとポチってしまったのだった(爆)
そして実際に手に取り、これを飫肥へ持って行って比べてみようと思い立ったのであった。
左がヤフオクで買った敷き瓦で180mm角。比べると小ささが分かる。ほんとにめちゃくちゃカワイイ♪
あーやっぱり実物を見ないと分からないな!!重かったけどはるばる持って行ってよかった!!
続く。
飫肥藩伊東家5万1千石の城下町。江戸時代初期のまちなみがほとんどそのまま残る飫肥城下町は
1977(昭和52)年に伝統的建造物郡保存地区(伝建地区)に選定されている。
今回の目的の旧山本猪平家は、廻船業などで財をなした飫肥の豪商の本宅として1907(明治40)年
頃に建てられたもので、附属屋も含めほぼ完全な形で残る。
インスタだったかフェイスブックだったかで見たこの敷き瓦が気になって調べたら旧山本猪平家のものと分かり
実際にこの目で質感を確かめたいと思い飫肥へやって来た。
一見網干の山本邸などでも見られる、珉平焼系統の淡陶の最初期のタイルと同じデザインで、印刻も施されているのだが、
最初に見たときから珉平焼ではないと思った。珉平焼の緑色はもっと鮮やかで透明感があって軽やか。
ベタッとした質感はむしろ瀬戸っぽい気がしたので。瀬戸蔵の武藤さんに尋ねたところ、
やはり瀬戸のもので、明治40年頃の加藤治右衛門の窯で作られたものだと教えて頂いた。
「うちも所蔵しています。尾張戸神社にも使われていますよ」。あっ!そうか!
急いで資料を見ると、ちゃんと載ってるじゃないの!迂闊だった~~。
飫肥に行く予定を決めてから、日南市にも問い合わせをして建物のことを聞いてみたら、旧山本猪平家は
伝建地区選定のときに調査して市の指定文化財になったが、敷瓦について詳しいことは分かっていないという。
それで瀬戸蔵の武藤さんに教えて頂いたことを伝えると、担当の方は喜んでくれて、山本邸の文化財指定の
時の資料などを、観光マップと共に送って下さった(笑)。
さて、9時になるので早足で前まで行ってみると、まだ準備中のようだ。あれっ、ここは9時半オープン?
門から中を覗いてみると、「どうぞ、いいですよ~。バタバタしてますけど」と。おじゃましまーす!
門越しにいきなり見えているアプローチの染付敷瓦。うぉぉ。
シンプルな柄、小ぶりなサイズの染付敷瓦が二列に並んでいる。
銅板転写による模様だろうが、長年踏まれ続けた敷瓦は表面の釉薬がペキペキと剥がれていて痛々しい。
中には表層がほとんど全部剥がれ落ちてコンクリート平板のようになってしまっているものも・・・(苦)
門から建物の入口までのアプローチにも、同じタイプの敷瓦が、飛び石のように配されていた。
前方左手に入口、右手には主屋が伸びている。
犬走りの部分にも敷瓦がポツポツと埋め込まれていた。
1997年に空き家になったあと修理を行い当初の姿に戻したという。アプローチや犬走りはその時に
コンクリートで固めたのだろうか。
そして、、、建物の入口から中を見やると、、、おおおぉ~~!これか!!
緑釉のかかった蓮華模様の敷瓦が、通り土間のような通路の中央部に3列並べられている!
こちらも擦れて色が剥げているものが多いが、釉薬が厚く密着度が高いのだろう、さっきの染付の
ようにペキペキと剥がれてはいない。
人が立ち止まる両端部が丸く膨らんだ形からは、来訪者を迎え入れる気持ちが伝わってくる。
淡路で作られた最初期のマジョリカタイルを見た瀬戸の職人が、対抗意識を燃やして本業敷瓦バージョンを
作ったのだろう。雰囲気はずいぶん違うが、どっしりと厚みのある敷瓦はやっぱり存在感がある。
こういうのを見ていると、当時技術やデザインの新しい情報が次々と入ってくる中で、各地それぞれ試行錯誤、
切磋琢磨していた様子が目に浮かんでとても感慨深いなぁ。
そして玄関へ。その床には、、、
おぉ、これまた素晴らしい印花文の敷瓦が四半貼りされている!うぉぉ。。この広い目地に萌える~~
そして上がり框の下、蹴上の部分にはさっきの通路のと同じ緑釉の敷瓦が一列貼られている!
床とは違い踏まれることがないので、こちらのは状態がすばらしくいいなぁ。つやつや!!
もとは皆こんなきれいだったんだな!
床のはよく見かける印花文で、型押しで陰刻の模様をつけたあとに白い釉薬をかけたものだが、さらに茶色で
着色してあるので模様がくっきりしている。
しかし、、、小さい!!測ってみると15cm角だった。5寸か!
この模様は瀬戸の古い8寸(24cm)角の敷瓦の代表的な模様だが、こんな小さいのは見たことない。
ミニチュアみたいでかわいいなぁ~~~
さっきの通り土間の敷瓦も、ネット上の写真で見て想像していたよりも小さく5寸サイズで、意外で驚いた。
また実は、1ヶ月ほど前にタイル友の会のメンバーから、それと同じタイルがヤフオクに出ているとの
情報があり、実物を間近で見てみたいとポチってしまったのだった(爆)
そして実際に手に取り、これを飫肥へ持って行って比べてみようと思い立ったのであった。
左がヤフオクで買った敷き瓦で180mm角。比べると小ささが分かる。ほんとにめちゃくちゃカワイイ♪
あーやっぱり実物を見ないと分からないな!!重かったけどはるばる持って行ってよかった!!
続く。