以前mayumamaさんのブログ記事を見てから是非私も見に行きたいと思っていた、揚輝荘へ、
春の18きっぷの期間中に行って来た。揚輝荘のある覚王山は名古屋駅から地下鉄で15分ほど。
自宅の最寄駅から約3時間半で行けるなら許容範囲だ。
運良く高槻から先ずっと座ることができ、覚王山駅に着いたのは11時半。いいお天気。
おしゃれなお店が並ぶ日泰寺の参道を歩いて、まずは南園の「聴松閣」へ。
うぉ~~!これか。真っ赤な壁はすごいインパクト。
揚輝荘は、松坂屋の初代社長となった伊藤次郎左衛門祐民(すけたみ)によって築かれた別邸。
一万坪の森を切り開いて作られた池泉回遊式庭園の中に、30数棟もの建物が点在していた。
建物は徳川邸のほかいろんな場所から移築されたものが多く、完成まで20年を要した。
聴松閣は、名古屋の建築界の巨匠で祐民と深い親交があった鈴木禎次の設計により新築された、
揚輝荘の中心的な建物である。施工は、こちらも親交の深かった竹中藤右衛門。
揚輝荘には各界の要人や文化人が往来し、迎賓館、社交場として賑わった。また外国人留学生を
迎え入れるなど国際交流の場でもあったが、戦争で多くの建物を失い、現在残っているのはわずか。
一万坪あった敷地もマンション開発などにより縮小され、約2700㎡の南園、約6500㎡の
北園の2ヶ所に分断されてしまった。
→揚輝荘、伊藤次郎左衛門祐民の詳しい説明は公式サイトにて
上高地帝国ホテルのイメージをまねたと言われる、ハーフティンバーの山荘風建築。
車寄せの柱に使われている石はどこの石だろう。赤紫っぽくゴツゴツしていて溶岩系だろうが
白い粒々が入っている。野趣があって素敵だな!
柱の上部はレンガ積のように石がせり出し持ち送りとなっている。
車寄せの床にはガラスブロックが入っている。
レリーフが深く刻まれた、玄関扉の額縁。
ガツガツとちょうなで削られた玄関扉の表面は、木の皮そのままのような荒々しさ。
そこにはもうかなり見にくくなっているが、伊藤次郎左衛門という文字が墨書きされている。
材木商が、木材を送る宛先を書きつけたものというが、祐民の遊び心でそのまま使ったのだとか。
玄関床には緻密な年輪を見せる材木が輪切りにされて敷き詰められている。
お昼なのでまずは喫茶室でランチを食べよう。本格的なインドのカレー(レトルトだろうが)は
この建物がインド風を取り入れていることとイメージを重ねているのだろうか。
「いとう」の文字を切り抜いた窓の透かし。遊び心があるなぁ。
この部屋はもともと食堂であり、暖炉が見どころ。京都の東寺や西寺(現存せず)、長野の善光寺
などの古い瓦が埋め込まれている。祐民は古瓦マニアだったのか。
六角形のは敷瓦だろう。いくつかのマークが押されているのを見ると裏側だろうか。
三彩カラーの半円筒型の瓦が左右に3枚ずつ使われているのも面白い。普通なら石材にするか
タイルを貼るところだろう。暖炉という西洋のものをこんな和風にしたのは何とも粋だな!
相席になったおばちゃんと話をしたら
地元の方で、年間パスを買っていてしょっちゅう来られているのだとか。昔のこともご存知で
マンションが建つ前、寮として使われていた時代のことなども話を聞かせて頂いた。
食堂からつながったサンルームと居間は現在展示室となっていて、最盛期の揚輝荘のジオラマ
などが置いてある。居間の暖炉はとてもモダン。
結晶の入った水色のタイルと金色の目地。とっても高貴な感じ~~
食後はガイドさんの説明を聞いているグループに混ぜてもらって、地下へ。
地下階がこの建物の一番独特な部分なのだが、ちょうど講演会が始まる直前でざわざわしていて
ゆっくり見れず、終了後にもう一度見に行ったので、先に2階のことを。
2階のホールの天井は開閉式になっている。夏は開け放して、冬は閉めて。熱効率を考えたエコ仕様。
船底天井の旧書斎。床はPタイルを市松状に。
旧応接室の暖炉は少し引っ込んだところにあり面白い空間だ。タイルの壁は、昔の写真から復元した
というが、目地が粗いしタイルもちょっと貧相だな。。。ここはもう少しこだわってほしかったなぁ。
旧寝室は、中国趣味の部屋。こんな天井見たことない。
床の寄せ木は雷文。
暖炉もこの通り、中国風のモチーフを表したテラコッタが使われている。このくもの巣みたいな
模様も中国風なんだろうか?
和室の寝室もあった。2階なのにお風呂や水場も附属していて、網代や丸竹が多用され赤い壁が
エキゾチックな数奇屋風。洗面所には造りつけの棚まであった。
続く。
春の18きっぷの期間中に行って来た。揚輝荘のある覚王山は名古屋駅から地下鉄で15分ほど。
自宅の最寄駅から約3時間半で行けるなら許容範囲だ。
運良く高槻から先ずっと座ることができ、覚王山駅に着いたのは11時半。いいお天気。
おしゃれなお店が並ぶ日泰寺の参道を歩いて、まずは南園の「聴松閣」へ。
うぉ~~!これか。真っ赤な壁はすごいインパクト。
揚輝荘は、松坂屋の初代社長となった伊藤次郎左衛門祐民(すけたみ)によって築かれた別邸。
一万坪の森を切り開いて作られた池泉回遊式庭園の中に、30数棟もの建物が点在していた。
建物は徳川邸のほかいろんな場所から移築されたものが多く、完成まで20年を要した。
聴松閣は、名古屋の建築界の巨匠で祐民と深い親交があった鈴木禎次の設計により新築された、
揚輝荘の中心的な建物である。施工は、こちらも親交の深かった竹中藤右衛門。
揚輝荘には各界の要人や文化人が往来し、迎賓館、社交場として賑わった。また外国人留学生を
迎え入れるなど国際交流の場でもあったが、戦争で多くの建物を失い、現在残っているのはわずか。
一万坪あった敷地もマンション開発などにより縮小され、約2700㎡の南園、約6500㎡の
北園の2ヶ所に分断されてしまった。
→揚輝荘、伊藤次郎左衛門祐民の詳しい説明は公式サイトにて
上高地帝国ホテルのイメージをまねたと言われる、ハーフティンバーの山荘風建築。
車寄せの柱に使われている石はどこの石だろう。赤紫っぽくゴツゴツしていて溶岩系だろうが
白い粒々が入っている。野趣があって素敵だな!
柱の上部はレンガ積のように石がせり出し持ち送りとなっている。
車寄せの床にはガラスブロックが入っている。
レリーフが深く刻まれた、玄関扉の額縁。
ガツガツとちょうなで削られた玄関扉の表面は、木の皮そのままのような荒々しさ。
そこにはもうかなり見にくくなっているが、伊藤次郎左衛門という文字が墨書きされている。
材木商が、木材を送る宛先を書きつけたものというが、祐民の遊び心でそのまま使ったのだとか。
玄関床には緻密な年輪を見せる材木が輪切りにされて敷き詰められている。
お昼なのでまずは喫茶室でランチを食べよう。本格的なインドのカレー(レトルトだろうが)は
この建物がインド風を取り入れていることとイメージを重ねているのだろうか。
「いとう」の文字を切り抜いた窓の透かし。遊び心があるなぁ。
この部屋はもともと食堂であり、暖炉が見どころ。京都の東寺や西寺(現存せず)、長野の善光寺
などの古い瓦が埋め込まれている。祐民は古瓦マニアだったのか。
六角形のは敷瓦だろう。いくつかのマークが押されているのを見ると裏側だろうか。
三彩カラーの半円筒型の瓦が左右に3枚ずつ使われているのも面白い。普通なら石材にするか
タイルを貼るところだろう。暖炉という西洋のものをこんな和風にしたのは何とも粋だな!
相席になったおばちゃんと話をしたら
地元の方で、年間パスを買っていてしょっちゅう来られているのだとか。昔のこともご存知で
マンションが建つ前、寮として使われていた時代のことなども話を聞かせて頂いた。
食堂からつながったサンルームと居間は現在展示室となっていて、最盛期の揚輝荘のジオラマ
などが置いてある。居間の暖炉はとてもモダン。
結晶の入った水色のタイルと金色の目地。とっても高貴な感じ~~
食後はガイドさんの説明を聞いているグループに混ぜてもらって、地下へ。
地下階がこの建物の一番独特な部分なのだが、ちょうど講演会が始まる直前でざわざわしていて
ゆっくり見れず、終了後にもう一度見に行ったので、先に2階のことを。
2階のホールの天井は開閉式になっている。夏は開け放して、冬は閉めて。熱効率を考えたエコ仕様。
船底天井の旧書斎。床はPタイルを市松状に。
旧応接室の暖炉は少し引っ込んだところにあり面白い空間だ。タイルの壁は、昔の写真から復元した
というが、目地が粗いしタイルもちょっと貧相だな。。。ここはもう少しこだわってほしかったなぁ。
旧寝室は、中国趣味の部屋。こんな天井見たことない。
床の寄せ木は雷文。
暖炉もこの通り、中国風のモチーフを表したテラコッタが使われている。このくもの巣みたいな
模様も中国風なんだろうか?
和室の寝室もあった。2階なのにお風呂や水場も附属していて、網代や丸竹が多用され赤い壁が
エキゾチックな数奇屋風。洗面所には造りつけの棚まであった。
続く。