前回佐田岬半島の青石垣めぐりをしたときに、時間の制約や運転技術の不安から見に行けなかった場所へ、
連れて行ってもらう機会に恵まれた。
今回の旅は元はと言えば、八幡浜から臼杵と別府へ渡る宇和島運輸のフェリーを使って、面白い旅のルートが
組めないかと考え始めたのだった。
南予はまだ見ていない町や見たい風景もある。一方、大分方面の駅舎めぐりもしたいし別府も再訪したい。
前回の旅でちょっとだけレンタカーも使う自信がついたので、八幡浜を拠点に半日遊んでから九州へ渡ろうか。
いや、それとも佐田岬の続きを攻めて三崎から佐賀関に渡るのというのも面白いな・・・
と考えて、前回もお世話になった町見郷土館の高嶋さんに相談したところ、案内して頂けることになった。
例のごとく朝一のピーチで松山へ入り、空港から直行バスで八幡浜へ。
八幡浜駅で合流した高嶋さんの車で一気に正野まで直行。さすが慣れた運転で、三崎を過ぎ正野まで
約1時間で到着した。早っ!
海鮮のお昼ごはんを食べてから、いざ、あの写真の巨大防風石垣と対面へ。
おお・・・デカイ!
見上げる石垣は高さ5mぐらいあるだろうか。床面にも石組みがあり、防潮堤の役割も果たしていたと思われる。
長さは約100mあるとか。はぁ〜、すごいな!
ここの石垣は「野坂の石垣」と言って、水産庁の「未来へ残したい漁業・漁村の歴史文化財100選」に
選ばれており、佐田岬半島の見どころとしてインターネットでも出てくる数少ないスポットのひとつである(笑)。
開口部が1ヶ所。中は民家の敷地らしい。まぐさには大きな平たい石が使われている。
こんな巨大な石垣でも厳しい自然の前に崩れることがあったようで、ところどころ積み直した跡が見られる。
大部分は平積みなのだが、部分的にタテハになっているのだ。崩れた部分を補修するのはタテハの方が
多少角度で調整できるからうまくいくのかもしれない。
こちらの民家の石垣も素晴らしい。乱雑に積んでいるのにきれいなRになっている。高さ3m以上あるな。
コンクリートで掲示板が作られているのが面白い。
教員住宅横の石垣を見ると台形の断面がよくわかる。
教員住宅とは言っても、小学校はすでに統廃合されてなくなったといい、空き家である。もったいないなぁ。。。
この建物を建てるときに土器がたくさん出土したのだとか。こんな辺鄙と思える土地に
古代から人が住んでいたとは驚きである。
正野には古い神社もあり、いろんな地方から人が船でこの地にやって来たことがわかるのだとか。
正野から、隣接する集落を巡りながら、佐田岬の指先部分をぐるっと回って憧れの北岸線を行くことに。
メロディラインは三崎で終わっているのでくねくね山道を走る。
隣の串集落で車を停めて、家々の間の路地へ分け入っていく。
ここでもやはり暮らしは石垣に囲まれている。
ところで、件の石垣マップに「超レアな赤紫色の石」というのが載っていて、前回見れなかったその赤い石を
今回は是非とも見たいと思っていた。青石垣のように赤い石垣が見られるのか!?と思っていたのだが
そうではなく青石垣の中にポツポツと混じっているのだとかで、ちょっとガッカリしたのだけれど
どれほど赤いのか、どんな赤なのか、コケや汚れで紫っぽく見える石もあるがそれとは全く違うのか、
実物を見なければ納得できないと思っていた。
そしてこのあたりの石垣の中にあきらかに茶色い石が混じっているのを見つけた。
確かに赤くレバーのようだ。・・・しかし、赤紫色ではないなぁ。
集落の中の辻にはちょくちょく井戸が見られる。よく古い井戸は石材で井桁に組んであったりするが、
ここの井戸は丸くてコンクリート製の土管のようなものを使っているのかなと意外に思えた。
ところが、なんとこの丸い井戸の枠は石材を削り出したものだった!
「豊後石」と呼んでいるそうで、灰色の柔らかい凝灰岩のような石だ。確かに、よく見るとノミの跡が
くっきりついている。
豊後石とは、豊後(大分県)で採れる石なのであろう。井戸枠に適した石を対岸から取り寄せたのだろうか。
それとも製品として出回っていたのだろうか。
築地塀のような土の入った石垣があるなと思ったら、ここは牛を飼う部屋なのだそうだ。
石垣だと体が当たると傷つくし冷気が通って寒いからというのもあるだろう。
こんな急傾斜で狭い耕地で牛が要ったのかと不思議に思ったが、使役用でなく肉牛の子牛の飼育であったそうだ。
ネットで調べてみると、佐田岬半島では江戸時代から昭和40年頃まで牛馬の飼育がさかんであったらしく、
こういう母屋に併設された牛飼い部屋を「駄屋」と呼んだらしい。
今では牛の飼育はほぼ廃れてしまったが、このような風景から昔の産業を知るきっかけとなるのである。
続く。
連れて行ってもらう機会に恵まれた。
今回の旅は元はと言えば、八幡浜から臼杵と別府へ渡る宇和島運輸のフェリーを使って、面白い旅のルートが
組めないかと考え始めたのだった。
南予はまだ見ていない町や見たい風景もある。一方、大分方面の駅舎めぐりもしたいし別府も再訪したい。
前回の旅でちょっとだけレンタカーも使う自信がついたので、八幡浜を拠点に半日遊んでから九州へ渡ろうか。
いや、それとも佐田岬の続きを攻めて三崎から佐賀関に渡るのというのも面白いな・・・
と考えて、前回もお世話になった町見郷土館の高嶋さんに相談したところ、案内して頂けることになった。
例のごとく朝一のピーチで松山へ入り、空港から直行バスで八幡浜へ。
八幡浜駅で合流した高嶋さんの車で一気に正野まで直行。さすが慣れた運転で、三崎を過ぎ正野まで
約1時間で到着した。早っ!
海鮮のお昼ごはんを食べてから、いざ、あの写真の巨大防風石垣と対面へ。
おお・・・デカイ!
見上げる石垣は高さ5mぐらいあるだろうか。床面にも石組みがあり、防潮堤の役割も果たしていたと思われる。
長さは約100mあるとか。はぁ〜、すごいな!
ここの石垣は「野坂の石垣」と言って、水産庁の「未来へ残したい漁業・漁村の歴史文化財100選」に
選ばれており、佐田岬半島の見どころとしてインターネットでも出てくる数少ないスポットのひとつである(笑)。
開口部が1ヶ所。中は民家の敷地らしい。まぐさには大きな平たい石が使われている。
こんな巨大な石垣でも厳しい自然の前に崩れることがあったようで、ところどころ積み直した跡が見られる。
大部分は平積みなのだが、部分的にタテハになっているのだ。崩れた部分を補修するのはタテハの方が
多少角度で調整できるからうまくいくのかもしれない。
こちらの民家の石垣も素晴らしい。乱雑に積んでいるのにきれいなRになっている。高さ3m以上あるな。
コンクリートで掲示板が作られているのが面白い。
教員住宅横の石垣を見ると台形の断面がよくわかる。
教員住宅とは言っても、小学校はすでに統廃合されてなくなったといい、空き家である。もったいないなぁ。。。
この建物を建てるときに土器がたくさん出土したのだとか。こんな辺鄙と思える土地に
古代から人が住んでいたとは驚きである。
正野には古い神社もあり、いろんな地方から人が船でこの地にやって来たことがわかるのだとか。
正野から、隣接する集落を巡りながら、佐田岬の指先部分をぐるっと回って憧れの北岸線を行くことに。
メロディラインは三崎で終わっているのでくねくね山道を走る。
隣の串集落で車を停めて、家々の間の路地へ分け入っていく。
ここでもやはり暮らしは石垣に囲まれている。
ところで、件の石垣マップに「超レアな赤紫色の石」というのが載っていて、前回見れなかったその赤い石を
今回は是非とも見たいと思っていた。青石垣のように赤い石垣が見られるのか!?と思っていたのだが
そうではなく青石垣の中にポツポツと混じっているのだとかで、ちょっとガッカリしたのだけれど
どれほど赤いのか、どんな赤なのか、コケや汚れで紫っぽく見える石もあるがそれとは全く違うのか、
実物を見なければ納得できないと思っていた。
そしてこのあたりの石垣の中にあきらかに茶色い石が混じっているのを見つけた。
確かに赤くレバーのようだ。・・・しかし、赤紫色ではないなぁ。
集落の中の辻にはちょくちょく井戸が見られる。よく古い井戸は石材で井桁に組んであったりするが、
ここの井戸は丸くてコンクリート製の土管のようなものを使っているのかなと意外に思えた。
ところが、なんとこの丸い井戸の枠は石材を削り出したものだった!
「豊後石」と呼んでいるそうで、灰色の柔らかい凝灰岩のような石だ。確かに、よく見るとノミの跡が
くっきりついている。
豊後石とは、豊後(大分県)で採れる石なのであろう。井戸枠に適した石を対岸から取り寄せたのだろうか。
それとも製品として出回っていたのだろうか。
築地塀のような土の入った石垣があるなと思ったら、ここは牛を飼う部屋なのだそうだ。
石垣だと体が当たると傷つくし冷気が通って寒いからというのもあるだろう。
こんな急傾斜で狭い耕地で牛が要ったのかと不思議に思ったが、使役用でなく肉牛の子牛の飼育であったそうだ。
ネットで調べてみると、佐田岬半島では江戸時代から昭和40年頃まで牛馬の飼育がさかんであったらしく、
こういう母屋に併設された牛飼い部屋を「駄屋」と呼んだらしい。
今では牛の飼育はほぼ廃れてしまったが、このような風景から昔の産業を知るきっかけとなるのである。
続く。