2019年秋の上越からの続き。
上越妙高から飛び乗ったはくたかで富山までやって来た。久々に降り立った富山駅は高架駅になって、
駅前に大きな広場ができていた。富山は10年ほど前に何度か来て富山地鉄の駅めぐりをしたのだ。
とてもしみじみと趣深い駅が多く、また行きたい行きたいと思いながら10年も経ってしまったのだな・・・(汗)
この時は急いでいたのであまりじっくり観察する時間がなかったのだが、市内電車の駅が新しいJR駅の高架下に
垂直におさまっていて驚いた!JRと駅構内で乗り換えできるようになったのだ。
尚、2020年の3月からは何とJRの北側にあった富山ライトレールと市内電車が合併し、直通運転をする
ようになった。あぁ、富山地鉄の進化はすごいな!!
さて、カーシェアの車で到着したのは、浮田家住宅。堂々たる門構え!オレンジ色の土壁が目を引く。
屋敷の周りには長谷川邸や貞観園などと同じように石組の水路がめぐっている。
浮田家は宇喜多秀家と縁のある家で、宇喜多→浮田の名を使っているという。
1693(元禄6)年に加賀藩より奥山廻役を命じられ、立山・黒部一帯の山林の保護や国境警備を行った。
明治に入り職制が廃止されるまで代々その職を務め、後には代官職も兼ねた家である。
材木、治水、鉱山の経営なども手がけていたとか。
主屋は1828(文政11)年、表門は天保年間(1830~1843)の築造で、主屋、表門、土蔵が
重要文化財に指定されている。
長谷川邸とよく似た雰囲気だな。やはり近い地方なので建築様式も似ているのだろう。
1階の屋根は板葺きで上に石が置かれている。大屋根は茅葺のようだが、長谷川邸ほどの厚みはない。
中へ入ると長谷川邸とはずいぶん違っていた。土間の玄関も上がり框がある独立した玄関となっている。
玄関を上がったところの板の間が玄関ホールである。作業用の広い土間に接し台所や広間へもつながる。
土間へは建物の横の側にある別の入口から入るようになっていた。
ここでは敷瓦を見るのがメインの目的なのだが、他のお客がいるので先に他の部屋を見学しよう。
台所との間の漆塗りの建具。これは無双窓になっているのだな!
この裏側に広い板の間の台所、隣接して茶の間がある。使用人が多かったことが想像される。
屋根裏はいぶされて真っ黒になっている。ガイドの方いわく、煙がいかない部分は茅が抜けやすいのだとか。
今も週2回囲炉裏に火を入れていぶしているといい、このときも煙のにおいが立ち込めていた。
石造りのかまど。
来客用玄関を上がったところの24畳敷のひろま。
代官も務めた浮田家には人の出入りも多かっただろう。
こちらの本座敷は上役である奉行などが入る部屋だった。
2間の床の間には床柱がない。床框は縞模様の美しい黒柿材が使われ、座った時の目線の高さがガラスになっている
「ねこま障子」が嵌っている。
可憐な水仙の釘隠し。細い茎と葉で釘が隠れるのかとちょっと心配になる(笑い)
透かし彫りの欄間。
こちらは「隠しの間」と呼ばれる部屋で、この部屋と隣の「奥控の間」は1897(明治30)年に
増築された部分。軽やかで洒落た近代和風建築の特徴がみられる。
床柱は輸入もののタイサンボクと言われていたような・・・
驚くのは、天井の押し縁や、建具にまで黒柿が使われているのだ!!え~~すごい!
美しい漆塗りの襖の枠。
引き手もいろんなデザインのものがあり見ていくと楽しい。
小さな部屋があちこちにあったのは家人のプライベートスペースだったのだろうか。
立山のお札がカワイイ(笑)
富山は浄土真宗が多いが浮田家は真言宗だそうで、仏間に置かれた仏壇も真言宗スタイルなのだとか。
続く。
上越妙高から飛び乗ったはくたかで富山までやって来た。久々に降り立った富山駅は高架駅になって、
駅前に大きな広場ができていた。富山は10年ほど前に何度か来て富山地鉄の駅めぐりをしたのだ。
とてもしみじみと趣深い駅が多く、また行きたい行きたいと思いながら10年も経ってしまったのだな・・・(汗)
この時は急いでいたのであまりじっくり観察する時間がなかったのだが、市内電車の駅が新しいJR駅の高架下に
垂直におさまっていて驚いた!JRと駅構内で乗り換えできるようになったのだ。
尚、2020年の3月からは何とJRの北側にあった富山ライトレールと市内電車が合併し、直通運転をする
ようになった。あぁ、富山地鉄の進化はすごいな!!
さて、カーシェアの車で到着したのは、浮田家住宅。堂々たる門構え!オレンジ色の土壁が目を引く。
屋敷の周りには長谷川邸や貞観園などと同じように石組の水路がめぐっている。
浮田家は宇喜多秀家と縁のある家で、宇喜多→浮田の名を使っているという。
1693(元禄6)年に加賀藩より奥山廻役を命じられ、立山・黒部一帯の山林の保護や国境警備を行った。
明治に入り職制が廃止されるまで代々その職を務め、後には代官職も兼ねた家である。
材木、治水、鉱山の経営なども手がけていたとか。
主屋は1828(文政11)年、表門は天保年間(1830~1843)の築造で、主屋、表門、土蔵が
重要文化財に指定されている。
長谷川邸とよく似た雰囲気だな。やはり近い地方なので建築様式も似ているのだろう。
1階の屋根は板葺きで上に石が置かれている。大屋根は茅葺のようだが、長谷川邸ほどの厚みはない。
中へ入ると長谷川邸とはずいぶん違っていた。土間の玄関も上がり框がある独立した玄関となっている。
玄関を上がったところの板の間が玄関ホールである。作業用の広い土間に接し台所や広間へもつながる。
土間へは建物の横の側にある別の入口から入るようになっていた。
ここでは敷瓦を見るのがメインの目的なのだが、他のお客がいるので先に他の部屋を見学しよう。
台所との間の漆塗りの建具。これは無双窓になっているのだな!
この裏側に広い板の間の台所、隣接して茶の間がある。使用人が多かったことが想像される。
屋根裏はいぶされて真っ黒になっている。ガイドの方いわく、煙がいかない部分は茅が抜けやすいのだとか。
今も週2回囲炉裏に火を入れていぶしているといい、このときも煙のにおいが立ち込めていた。
石造りのかまど。
来客用玄関を上がったところの24畳敷のひろま。
代官も務めた浮田家には人の出入りも多かっただろう。
こちらの本座敷は上役である奉行などが入る部屋だった。
2間の床の間には床柱がない。床框は縞模様の美しい黒柿材が使われ、座った時の目線の高さがガラスになっている
「ねこま障子」が嵌っている。
可憐な水仙の釘隠し。細い茎と葉で釘が隠れるのかとちょっと心配になる(笑い)
透かし彫りの欄間。
こちらは「隠しの間」と呼ばれる部屋で、この部屋と隣の「奥控の間」は1897(明治30)年に
増築された部分。軽やかで洒落た近代和風建築の特徴がみられる。
床柱は輸入もののタイサンボクと言われていたような・・・
驚くのは、天井の押し縁や、建具にまで黒柿が使われているのだ!!え~~すごい!
美しい漆塗りの襖の枠。
引き手もいろんなデザインのものがあり見ていくと楽しい。
小さな部屋があちこちにあったのは家人のプライベートスペースだったのだろうか。
立山のお札がカワイイ(笑)
富山は浄土真宗が多いが浮田家は真言宗だそうで、仏間に置かれた仏壇も真言宗スタイルなのだとか。
続く。