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Channel: まちかど逍遥
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横浜の近代建築眺め歩き

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コーヒーの大学院ルミエール・ド・パリでしばし休憩したあと、旧横浜市庁舎を設計した村野藤吾と、新しい
横浜市庁舎を設計した槇文彦氏の展示を見に、市役所の移転先である馬車道の方へ、ふらふら歩いて行く。
2年ほど前に別の友人と横浜の建築を少しめぐり、去年の夏にも少しうろついたが、馬車道の方までは
行っていなかった。

神奈川県立歴史博物館。1904(明治37)年に横浜正金銀行本店として建てられた。


妻木頼黄設計、ネオバロック様式の重厚な建物は、重要文化財に指定されている。
これはなくなることはないのでまたゆっくりと。


その向かいは、馬車道大津ビル。ちょっと足元が切れているが・・・(汗)
クリーム色のタイルに覆われ遠目にはプレーンな感じに見えるが、よく見ると窓の下や一番上の方の
タイルの貼り方は凝っていて、同色のレリーフタイルも使われているなど、実はなかなかおしゃれなのである。


その隣は石に覆われ見上げる円柱を並べた、また見るからに銀行建築。1929(昭和4)年に建てられた、
旧安田銀行横浜支店。
現在は横浜市が所有し、東京藝術大学大学院映像研究科馬車道校舎として使われているということだが、
巨大な吹き抜け空間であろうこの建物をどんなふうに使いこなしているのかな。


そしてここが、槇文彦展の会場。旧横浜銀行本店別館。鋭角の角地にぐぐっと突き出したこの建物は、
1929(昭和14)年に第一銀行横浜支店として建てられた。ここだけ3階建ての低層だが、
大海原の水をかきわけ突き進む舳先のように力強く感じられる。
そしてその背後にある高層の建物が槇文彦設計の新市庁舎だ。


内部は撮影NGだったので写真はないが、2階までが吹抜けとは言っても普通の建物の3層分ぐらいある。


槇文彦氏の建物って実のところほとんど意識したことがなかったが、代官山ヒルサイドテラスという昔から
よく名前を聞いて知っている建物群がそうだったとは初めて知った(汗)。
1969(昭和44)年に第1期計画が完成したあと、第2期、第3期・・・と、1992年まで、
時代の要求を取り入れながら段階的に拡張を続け、50年以上の年月をかけてまちなみを、コミュニティを、
そして文化をも作り続けている、「建築」という枠ではくくれない、大プロジェクトである。
・・・ということを知り興味深く見た。
代官山って、高校の卒業旅行で東京へ憧れの雑貨屋めぐり(笑)をしに行ったときに初めて行って、
その後何回かは行ったかな・・・久々に行ってヒルサイドテラスをじっくり見てみたくなった。

さて道路を海側へ渡ったところの、旧帝蚕倉庫本社事務所の奥が村野藤吾展の会場である。


どちらか言うとこっちに期待が大きかった。そして期待通り素晴らしい展示で、見てきたばかりの
旧横浜市庁舎の魅力もおさらいできたし、日本各地の村野建築の模型や村野デザインの椅子などの
展示もあり、村野建築の魅力を堪能した。


この会場で別の友人にもばったり会ったので、一緒にランチをとることにし、前にも入った海岸通り沿いの
「海岸通壱番館」へ向かうことに。

横浜市第二合同庁舎。旧横浜生糸検査所。こないだ火事あったのここ?


横浜税関。


前に行った店が1時半過ぎでもうランチ終了というので(早!)上の店で、ちょっとリッチに
タンシチューのセットを食べたら、これがとろけるようなタンの塊がごろごろ、めちゃくちゃ
おいしくて大当たり!!あぁもう一度食べたい。。
ビルの屋上に上がってもいいですよとのことだったので行ってみると、うわぁ~~、いい眺め!!


港も一望できるし、旧神奈川県庁舎も俯瞰できる。


坂倉準三作のタイル貼り神奈川県庁新庁舎も全体がよく見えた!




その後また建築を見ながら関内駅へ向かう。


旧神奈川県庁舎。


横浜情報文化センター。旧横浜商工奨励館。




横浜地方裁判所。


「ザ・ベイズ」。旧日本綿花横浜支店。




横浜スタジアムのある横浜公園の入口の門柱は、スクラッチタイル貼りの円柱形でちょっと古そうだな?


通り抜けようと歩いていると説明板に目が留まる。そこには古い絵図が載っていた。
・・・ほほう?ここに、昔遊郭があったと?
「港崎(みよざき)遊郭」は、1859年の横浜港開港に合わせるべく作られたという。


旧横浜市庁舎の南側が運河だったというのは見学会の時に聞いたが、そもそもこのあたり全部、元は海だろう。
ちょっと調べてみると、JR関内駅の南西側の市街地は江戸時代前期に、江戸の材木商の吉田勘兵衛という人が
入江を埋め立てて開発した「吉田新田」(1667年完成)であった。その後、現在の中華街にあたる
「横浜新田」(1818年完成)、旧市役所などのあったエリアである「太田屋新田」(1853完成)が
開発され、その間の沼地として残っていた場所を、遊廓を造るために新たに埋め立てたということらしい。
そして、その港崎遊廓は火事により7年後に消失し、その後他の地へ移転してしまった。
同じ場所で復興しなかったのは、開港により町が栄えたからだ。新田は居住区となり遊廓跡地は公園となった。
当時の横浜公園の名残の噴水が今も残されている。


さて、まだ日暮れまで少し時間があるので、根岸へ移動する。

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