2020年1月の伊勢・鳥羽の続き。
賓日館は中庭を囲んでぐるりと廊下が回っている。廊下を奥へ進んでみよう。
「大広間棟」の1階に客室が6室、配されている。
この手前の廊下は少し広くなっており、2方向からの廊下が合流するホールのような空間だ。
いろんな引き手を集めた面白い額が飾られていた。これ全部館内にあるのかな!?
うわ、奥側の廊下に、太鼓橋のような欄干がついている。面白いなぁ!
擬宝珠は木を彫り出したもので、さすが良い材を使っているのだろう、割れもせず滑らかで美しい。
当初は床も太鼓橋のように盛り上がっていたのだとか。
欄干のある廊下を進んだ西側のエリアは資料室や展示コーナー。そちらは確か写真撮影NGだったのだな、
写真が一枚もないのであまり覚えていないが(汗)、二見浦の歴史資料や賓日館の昔の調度品、二見町が生んだ
日本画家、中村左州の作品などが展示されている。
客室の方を見に行こう。各室は形も広さも全部異なっていて、さくら・うめ・まつ・もみじ・うぐいす・つる、
というそれぞれの部屋名にちなんだモチーフや材を使うなど趣向が凝らされている。
さくらの間では、床柱に桜の皮つき丸太、床の間の天井には桜の皮で編んだ網代が使われるなど。
材を曲げて作られた面白い格子。
うめの間は、書院が2畳の独立した部屋のようになっているのが面白い。
室境の欄間に梅の透かし彫り、書院の欄間にも梅の木の透かし彫りが。
まつの間でも書院欄間に松の木の透かし彫り、廊下の突き当りの杉戸絵も松が描かれている。
床柱は松材だったかどうかうろ覚えだが、松の絵の掛け軸も飾られていた。
美しい襖の引き手。
さて、エントランスホールへ戻り、階段を上がろう。踊り場もさっきの階段下と同じ寄木の床だ。
壁には洗濯板のようなこんなぎざぎざな腰板が張られている。
階段の中央に取り付けられた照明。
階段の支柱に取り付けられた金物。
階段を上り切ると八角形の窓が目に飛び込んでくる。枠は漆塗りのようだな。
翁の間と名付けられた2階の中広間は大きな格間の格天井。床柱は絞りの杉材、欄間の格子も繊細で上質な
空間だが、装飾は少なく比較的あっさりした印象。床の間の壁が扇型にくり抜かれているのが、唯一目を引いた装飾だ。
この翁の間は元は大広間だったのだとか。
明治末期の増改築で「玄関棟と西棟を2階建に」したと書かれており、そのときに作られたと思われる。
昭和の増改築でもっと大きな広間が作られたので中広間に格下げ(?)となったのだろう。
この扇の間と6つの客室は貸し部屋として使えるらしい。
続く。
賓日館は中庭を囲んでぐるりと廊下が回っている。廊下を奥へ進んでみよう。
「大広間棟」の1階に客室が6室、配されている。
この手前の廊下は少し広くなっており、2方向からの廊下が合流するホールのような空間だ。
いろんな引き手を集めた面白い額が飾られていた。これ全部館内にあるのかな!?
うわ、奥側の廊下に、太鼓橋のような欄干がついている。面白いなぁ!
擬宝珠は木を彫り出したもので、さすが良い材を使っているのだろう、割れもせず滑らかで美しい。
当初は床も太鼓橋のように盛り上がっていたのだとか。
欄干のある廊下を進んだ西側のエリアは資料室や展示コーナー。そちらは確か写真撮影NGだったのだな、
写真が一枚もないのであまり覚えていないが(汗)、二見浦の歴史資料や賓日館の昔の調度品、二見町が生んだ
日本画家、中村左州の作品などが展示されている。
客室の方を見に行こう。各室は形も広さも全部異なっていて、さくら・うめ・まつ・もみじ・うぐいす・つる、
というそれぞれの部屋名にちなんだモチーフや材を使うなど趣向が凝らされている。
さくらの間では、床柱に桜の皮つき丸太、床の間の天井には桜の皮で編んだ網代が使われるなど。
材を曲げて作られた面白い格子。
うめの間は、書院が2畳の独立した部屋のようになっているのが面白い。
室境の欄間に梅の透かし彫り、書院の欄間にも梅の木の透かし彫りが。
まつの間でも書院欄間に松の木の透かし彫り、廊下の突き当りの杉戸絵も松が描かれている。
床柱は松材だったかどうかうろ覚えだが、松の絵の掛け軸も飾られていた。
美しい襖の引き手。
さて、エントランスホールへ戻り、階段を上がろう。踊り場もさっきの階段下と同じ寄木の床だ。
壁には洗濯板のようなこんなぎざぎざな腰板が張られている。
階段の中央に取り付けられた照明。
階段の支柱に取り付けられた金物。
階段を上り切ると八角形の窓が目に飛び込んでくる。枠は漆塗りのようだな。
翁の間と名付けられた2階の中広間は大きな格間の格天井。床柱は絞りの杉材、欄間の格子も繊細で上質な
空間だが、装飾は少なく比較的あっさりした印象。床の間の壁が扇型にくり抜かれているのが、唯一目を引いた装飾だ。
この翁の間は元は大広間だったのだとか。
明治末期の増改築で「玄関棟と西棟を2階建に」したと書かれており、そのときに作られたと思われる。
昭和の増改築でもっと大きな広間が作られたので中広間に格下げ(?)となったのだろう。
この扇の間と6つの客室は貸し部屋として使えるらしい。
続く。