2019年9月の台湾金門島の続き。
金門城という地名の場所へやってきた。ここはその名の通り、もともとお城だったところ。
と言っても天守閣などがあったわけでもなく、台北や台南や他の都市と同様、城壁に囲まれた城であった。
元~明朝の初め頃、倭寇によって度々民家が放火され略奪にあっていたため、江夏侯の周徳興が民家の周囲に城壁を築いた。
当初「守衛金門千戸所」と呼ばれた城は「金門千戸所城」「金門城」と簡略化した名となり、そこから
「浯洲嶼」とそれまで呼ばれていた島の名前が「金門島」に改められたとか。ここが金門島の名前の発祥の地なのだ!
金門城は、幅約3.2m、高さ約8mの城壁が巡らされ、周長約2km、東西南北4ヶ所の門があった。これは北門である。
この門の外側、つまり城壁外に「明遺街」という一角がある。文字通りなら明の時代のまちなみがそのまま残っている
ということなのだろうが、明の時代は3百数十年前。本当にそのままなのかどうか??明時代の様式を引き継いでいる
ということなのかもしれない。
明遺街は緩やかに湾曲した1本の通りだった。門にいちばん近い場所に建つ建物の一部が、古街故事館として公開されている。
石と磚、レンガを組み合わせた金門島独特の美しい壁。
ここは日本で言う伝建地区になっているようで、今後順次ファサードの修景を行い、整備活用する計画があるようだ。
ここは民宿もやっているので、公開しているのは表側の部屋のみである。
明遺街の建物の最小単位は、表に1室、「天井」と呼ばれる中庭を挟んで奥に1室、という構成である。
規模が大きくなると、奥行は伸びずに間口方向に袖壁を挟んで2部屋、3部屋と増えていく。
ここは通りに面して3部屋あるのでかなり大きい建物と言える。いちばん左端が主屋だからか屋根が一段高くなっている。
この壁のモザイク・・・ため息がでるほど美しいなぁ!
こちら側の條石積みの壁もまた素晴らしい。
3部屋の展示室に、金門城の歴史や建物のこと、地区計画についてなど、図や写真などの分かりやすい資料が展示されている。
明遺街は、この図で上の方にある北門の外側にある。左手は海。
海防の拠点であった金門城は航海の要衝でもあり、人口が増えると共に商業が盛んになり栄えたが、
総兵署が後浦(金城)に移されてから衰退したという。
さて、歩いて行ってみよう。
あっ、ここの家にはタイルがあった!
このお宅は他の集落で見ていたのと同じ3.5合院タイプであり、まわりとはちょっと異質。
これは先のタイプに比べて新しく、清以降だろう。日本製のタイルはもちろん1910年頃以降に持ち込まれたものだ。
残念ながらここは空き家のようだった。そして普通は両側にあるはずだが右側にしかタイルが残っていなかった。
そして、中庭に面した壁にもタイルが貼られているのが、入口の木戸の上からチラッと見えた!
明時代の建物じゃないかもしれないけど伝統建築なのでうまく活用してほしいなぁ~
古いスタイルの建物が軒を連ねていて、確かに他の集落とは違ったまちなみである。
しかし空き家も多く、中を覗くとこんなふうに屋根が抜けていたり、、、(涙)
今も住まわれているところも半分ぐらいある。
さっきの古街故事館の展示でまちなみ整備のビジョンが示されていたが、セメント瓦を全て赤瓦に変え、ビルに建て替わったところは
ファサードを整え赤瓦を載せるような絵になっていた。このようなまちなみ整備にあたっては、復元は最低限にする方がいい。
建物が改変されているのは、ずっと昔から現在までここに住み続けておられることの証で、それ自体が尊いのだから。
全戸テナント化してしまうなんてことは絶対してほしくない。単なる商店街になれば価値が激減してしまう。
どこを撮っても絵になる、長い時を経てかもし出されるこの自然な美しさを保ってほしい。
反対側の突き当たりには廻向殿という祠があった。きれいに手入れされ、賑やかな飾りがぶら下げられているのを見ると
ここに暮らす人々の信心深く誠実な姿が思い起こされる。
さて、場内を見ていこう。
続く。
金門城という地名の場所へやってきた。ここはその名の通り、もともとお城だったところ。
と言っても天守閣などがあったわけでもなく、台北や台南や他の都市と同様、城壁に囲まれた城であった。
元~明朝の初め頃、倭寇によって度々民家が放火され略奪にあっていたため、江夏侯の周徳興が民家の周囲に城壁を築いた。
当初「守衛金門千戸所」と呼ばれた城は「金門千戸所城」「金門城」と簡略化した名となり、そこから
「浯洲嶼」とそれまで呼ばれていた島の名前が「金門島」に改められたとか。ここが金門島の名前の発祥の地なのだ!
金門城は、幅約3.2m、高さ約8mの城壁が巡らされ、周長約2km、東西南北4ヶ所の門があった。これは北門である。
この門の外側、つまり城壁外に「明遺街」という一角がある。文字通りなら明の時代のまちなみがそのまま残っている
ということなのだろうが、明の時代は3百数十年前。本当にそのままなのかどうか??明時代の様式を引き継いでいる
ということなのかもしれない。
明遺街は緩やかに湾曲した1本の通りだった。門にいちばん近い場所に建つ建物の一部が、古街故事館として公開されている。
石と磚、レンガを組み合わせた金門島独特の美しい壁。
ここは日本で言う伝建地区になっているようで、今後順次ファサードの修景を行い、整備活用する計画があるようだ。
ここは民宿もやっているので、公開しているのは表側の部屋のみである。
明遺街の建物の最小単位は、表に1室、「天井」と呼ばれる中庭を挟んで奥に1室、という構成である。
規模が大きくなると、奥行は伸びずに間口方向に袖壁を挟んで2部屋、3部屋と増えていく。
ここは通りに面して3部屋あるのでかなり大きい建物と言える。いちばん左端が主屋だからか屋根が一段高くなっている。
この壁のモザイク・・・ため息がでるほど美しいなぁ!
こちら側の條石積みの壁もまた素晴らしい。
3部屋の展示室に、金門城の歴史や建物のこと、地区計画についてなど、図や写真などの分かりやすい資料が展示されている。
明遺街は、この図で上の方にある北門の外側にある。左手は海。
海防の拠点であった金門城は航海の要衝でもあり、人口が増えると共に商業が盛んになり栄えたが、
総兵署が後浦(金城)に移されてから衰退したという。
さて、歩いて行ってみよう。
あっ、ここの家にはタイルがあった!
このお宅は他の集落で見ていたのと同じ3.5合院タイプであり、まわりとはちょっと異質。
これは先のタイプに比べて新しく、清以降だろう。日本製のタイルはもちろん1910年頃以降に持ち込まれたものだ。
残念ながらここは空き家のようだった。そして普通は両側にあるはずだが右側にしかタイルが残っていなかった。
そして、中庭に面した壁にもタイルが貼られているのが、入口の木戸の上からチラッと見えた!
明時代の建物じゃないかもしれないけど伝統建築なのでうまく活用してほしいなぁ~
古いスタイルの建物が軒を連ねていて、確かに他の集落とは違ったまちなみである。
しかし空き家も多く、中を覗くとこんなふうに屋根が抜けていたり、、、(涙)
今も住まわれているところも半分ぐらいある。
さっきの古街故事館の展示でまちなみ整備のビジョンが示されていたが、セメント瓦を全て赤瓦に変え、ビルに建て替わったところは
ファサードを整え赤瓦を載せるような絵になっていた。このようなまちなみ整備にあたっては、復元は最低限にする方がいい。
建物が改変されているのは、ずっと昔から現在までここに住み続けておられることの証で、それ自体が尊いのだから。
全戸テナント化してしまうなんてことは絶対してほしくない。単なる商店街になれば価値が激減してしまう。
どこを撮っても絵になる、長い時を経てかもし出されるこの自然な美しさを保ってほしい。
反対側の突き当たりには廻向殿という祠があった。きれいに手入れされ、賑やかな飾りがぶら下げられているのを見ると
ここに暮らす人々の信心深く誠実な姿が思い起こされる。
さて、場内を見ていこう。
続く。