去年12月に行った台湾のことを。。早く書かないとまた次の台湾行きが来てしまうな(汗)
朝イチのピーチで飛んできて、台北の宿に到着したのがちょうどお昼。地元系のビジネスホテルは柔軟で、
チェックイン時間はまだなのに部屋に入らせてくれたのはありがたい。
実は初日どこへ行くかはっきり決めていないまま出発してしまったので、とりあえず荷物を置いて台北市内でも
うろつこうと思っていたのだが、ふと思いついた。そうだ、前回大渓へ行きそびれたんだったな、今から行くか!
大渓へは特急で中壢まで行ってバス。ところが・・・
台鉄の特急の指定券はこれまでいつも窓口で買っていたのだが、自動券売機で買えるのか~~しかも
クレジットカードで!便利~~♪と喜んで買ったところ、先に出てきたクレジットカードの控えだけを取って、
肝心のチケットを取り忘れたのだ(呆)。改札であたふたしたあと、結局再度支払い、、、情けなや(汗)
2倍の料金をかけて到着した中壢駅、初めて下車する駅だし構内に貨物車両が停まっていて、ゆっくり楽しみたい
ところだが、まずはバス乗り場へ急ごう。
駅の南側はレトロな雰囲気で、庶民の生活がすぐそばにある。観光地大渓行きのバスが発着するのも古く小さなバス停だ。
しばらく待って来たバスは50分ほど走り、文字通り大きな川を渡ったすぐのところにある大渓のまちに到着した。
終点まで行けばよかったのに大勢の人が降りたのでつられて降りたら、ターミナルでない道端のバス停で、
現在地を把握するのにしばらくかかった。。。(地図アプリは位置情報をオフにしているので・・・)
大渓も三峡とともに12年前に来たことがあるが、その時は友人に連れられて車で来たのであまりまちの
地理が分かっていなかった。
さて、ここでの滞在時間は2時間ぐらい・・・短いな(汗)。今日は夜に友人と食事の約束をしているのだ。
帰りのバスの時刻もはっきりわからないし、友人が予約してくれている有機食材の鍋の店は人気店で
10分遅れたらキャンセルされるというので絶対遅れられない(汗)。駆け足で回ろう。
まず中山老街から歩く。日本統治時代に流行ったバロック風看板建築が今もそのまま使われている。
大渓も三峡と同じく大河川のほとりに立地するまち。大漢渓を利用した水運で茶葉・樟脳・木材などを運び、
その集散地として栄えてきた。水運が廃れたあとはやはり街も衰退したが、そのスピードが急速であったからこそ
こういうまちなみが変わらず残っているのだろう。壮観な町並みからは往時の活気や勢いが十分に感じられる。
この老街は観光客向けの雰囲気はあまりなく、昔から地元の人向けにやっている日用品のお店が比較的多いように感じる。
歯抜けになっていたりあまりきれいじゃないのもそれぞれの所有者次第で、いかにも自然。人や車も少ないし、
お土産や食べ物に気を取られることなくのんびりと歩くにはいい場所だな。
こういう建物を「バロック風」というが、ちょっとつかみどころのない言葉。あらためてネットで調べてみると
16世紀末頃にローマで始まった芸術活動が世界各地に広がり、凝った装飾、過剰な装飾の多用が特徴なのだとか。
確かにこれらの建築は何でもありの装飾過多だ。
各家、柱頭飾りのある付け柱やペディメント風の部分、バルコニーのような部分があったりするので何となく
洋風に見えるが、よく見ると獅子や中国風のモチーフ、漢字の屋号、「剪黏」という中国の伝統装飾なども使われ、
十分に中国的である。
おお、ここは間口が広くドームの載ったひときわ立派な建物だが、壁の向こうは・・・空き地!?
建成商行という樟脳と石炭を扱う企業の事務所兼、その経営者である簡阿牛という人の住居だった建物。
ドームの正面に「簡」の字と、屋号も見える。12年前と良くも悪くも変わっていない。当時から皮一枚だったのだ!
「修復工程企画設計説明会」のポスターが貼ってあるところを見ると、近々改修工事の予定があるようだな。
活用されるのならうれしいなぁ。
まちの周縁部にあたる大漢渓沿いに、いくつかの日治時代の建物が固まっている。
1935年築の武徳殿は改修されてミュージアムになっていた。その時は木彫のアーティストの展示が行われていて
室内にヒノキの香りが漂っていた。
この石敷きのアプローチが素敵。
元大渓公学校校長宿舎だった情報センター、元大渓郡役所警察独身寮だった「芸師館」、もと大渓郡役所警察宿舎
だった「四連棟」。前は見た記憶がないのでいずれも近年に復元されたのだろうか。
大渓で一番カッコいい洋風の近代建築である大渓公会堂を見に行ったら、全体がシートに覆われていた。
改修工事中らしい。あ~残念。
道端にあった謎の装飾。
土角と呼ばれる日干しレンガを積み上げた塀。素朴でいいなぁ。
レンガ塀に囲まれてほとんど崩れかけの日本の桟瓦葺の家屋が残っていた。日本人が住んでいたこういう住宅が
おそらくこのあたりにずらりと建ち並んでいたと思われる。まさかこれも保存しようとしているではあるまいな!?
いや、本当にそうかもしれない。今度来たらきれいに修復された姿が見られるかも。。。
続く。
朝イチのピーチで飛んできて、台北の宿に到着したのがちょうどお昼。地元系のビジネスホテルは柔軟で、
チェックイン時間はまだなのに部屋に入らせてくれたのはありがたい。
実は初日どこへ行くかはっきり決めていないまま出発してしまったので、とりあえず荷物を置いて台北市内でも
うろつこうと思っていたのだが、ふと思いついた。そうだ、前回大渓へ行きそびれたんだったな、今から行くか!
大渓へは特急で中壢まで行ってバス。ところが・・・
台鉄の特急の指定券はこれまでいつも窓口で買っていたのだが、自動券売機で買えるのか~~しかも
クレジットカードで!便利~~♪と喜んで買ったところ、先に出てきたクレジットカードの控えだけを取って、
肝心のチケットを取り忘れたのだ(呆)。改札であたふたしたあと、結局再度支払い、、、情けなや(汗)
2倍の料金をかけて到着した中壢駅、初めて下車する駅だし構内に貨物車両が停まっていて、ゆっくり楽しみたい
ところだが、まずはバス乗り場へ急ごう。
駅の南側はレトロな雰囲気で、庶民の生活がすぐそばにある。観光地大渓行きのバスが発着するのも古く小さなバス停だ。
しばらく待って来たバスは50分ほど走り、文字通り大きな川を渡ったすぐのところにある大渓のまちに到着した。
終点まで行けばよかったのに大勢の人が降りたのでつられて降りたら、ターミナルでない道端のバス停で、
現在地を把握するのにしばらくかかった。。。(地図アプリは位置情報をオフにしているので・・・)
大渓も三峡とともに12年前に来たことがあるが、その時は友人に連れられて車で来たのであまりまちの
地理が分かっていなかった。
さて、ここでの滞在時間は2時間ぐらい・・・短いな(汗)。今日は夜に友人と食事の約束をしているのだ。
帰りのバスの時刻もはっきりわからないし、友人が予約してくれている有機食材の鍋の店は人気店で
10分遅れたらキャンセルされるというので絶対遅れられない(汗)。駆け足で回ろう。
まず中山老街から歩く。日本統治時代に流行ったバロック風看板建築が今もそのまま使われている。
大渓も三峡と同じく大河川のほとりに立地するまち。大漢渓を利用した水運で茶葉・樟脳・木材などを運び、
その集散地として栄えてきた。水運が廃れたあとはやはり街も衰退したが、そのスピードが急速であったからこそ
こういうまちなみが変わらず残っているのだろう。壮観な町並みからは往時の活気や勢いが十分に感じられる。
この老街は観光客向けの雰囲気はあまりなく、昔から地元の人向けにやっている日用品のお店が比較的多いように感じる。
歯抜けになっていたりあまりきれいじゃないのもそれぞれの所有者次第で、いかにも自然。人や車も少ないし、
お土産や食べ物に気を取られることなくのんびりと歩くにはいい場所だな。
こういう建物を「バロック風」というが、ちょっとつかみどころのない言葉。あらためてネットで調べてみると
16世紀末頃にローマで始まった芸術活動が世界各地に広がり、凝った装飾、過剰な装飾の多用が特徴なのだとか。
確かにこれらの建築は何でもありの装飾過多だ。
各家、柱頭飾りのある付け柱やペディメント風の部分、バルコニーのような部分があったりするので何となく
洋風に見えるが、よく見ると獅子や中国風のモチーフ、漢字の屋号、「剪黏」という中国の伝統装飾なども使われ、
十分に中国的である。
おお、ここは間口が広くドームの載ったひときわ立派な建物だが、壁の向こうは・・・空き地!?
建成商行という樟脳と石炭を扱う企業の事務所兼、その経営者である簡阿牛という人の住居だった建物。
ドームの正面に「簡」の字と、屋号も見える。12年前と良くも悪くも変わっていない。当時から皮一枚だったのだ!
「修復工程企画設計説明会」のポスターが貼ってあるところを見ると、近々改修工事の予定があるようだな。
活用されるのならうれしいなぁ。
まちの周縁部にあたる大漢渓沿いに、いくつかの日治時代の建物が固まっている。
1935年築の武徳殿は改修されてミュージアムになっていた。その時は木彫のアーティストの展示が行われていて
室内にヒノキの香りが漂っていた。
この石敷きのアプローチが素敵。
元大渓公学校校長宿舎だった情報センター、元大渓郡役所警察独身寮だった「芸師館」、もと大渓郡役所警察宿舎
だった「四連棟」。前は見た記憶がないのでいずれも近年に復元されたのだろうか。
大渓で一番カッコいい洋風の近代建築である大渓公会堂を見に行ったら、全体がシートに覆われていた。
改修工事中らしい。あ~残念。
道端にあった謎の装飾。
土角と呼ばれる日干しレンガを積み上げた塀。素朴でいいなぁ。
レンガ塀に囲まれてほとんど崩れかけの日本の桟瓦葺の家屋が残っていた。日本人が住んでいたこういう住宅が
おそらくこのあたりにずらりと建ち並んでいたと思われる。まさかこれも保存しようとしているではあるまいな!?
いや、本当にそうかもしれない。今度来たらきれいに修復された姿が見られるかも。。。
続く。