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Channel: まちかど逍遥
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東予の旅 マイントピア別子(東平エリア)

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マイントピア別子 続き

東平はmayumamaさんのレポートを見て是非行きたいと思っていたのだが、
自家用車でない私は有料バスツアーしか行く手段がない。ツアー参加者は12~3人。
マイクロバスでくねくね道を行く。


別子銅山は1691(元禄4)年に住友家により開坑した。最初は露頭の発見された山の上の方で
採鉱されていたが、傾斜した鉱床を掘り進み徐々に深度を増していくと、水平に運び出す坑道が
つくられ、それに伴い拠点施設も下へ下りて来る。東平地区の開発は明治後半である。
採鉱本部が1916(大正5)年から1930(昭和5)年まで置かれ、そのあとさらに下った
端出場に移転することになる。

東洋のマチュピチュと称されるこの山中の秘境の遺構群も、端出場と同じく今は子供や
お年寄りでも安心して見れるようにきっちり整備されて公園のようで、資料館もある。


駐車場から下を見下ろすと、貯鉱庫や選鉱場の箱型の構造物は確かにお城のようであり、
マチュピチュを連想するのもうなずける。
ここは鉱石を貯めておくための貯鉱庫。今は土で埋まってしまっているが、
上の写真のシュートへガラガラと放り込むとこの中へ落ちるようになっている。


ガイドさんの説明を聞きながら、インクライン跡の長大階段を降りる。


きれいすぎて鉱山時代の生々しさはないが、年月を経た石の構造物は美しく迫力がある。


こちらは選鉱場跡。上の貯鉱庫から少しずつ出しながら鉱石を分別したらしい。




こちらのレンガ積みの構造物は東平索道停車場跡。選鉱場の鉱石を下部鉄道の駅までロープウェイで
運んだという。


その下の段にあった社宅跡。住戸は基礎しか残っていない。


資料館に展示された当時の人々の写真が印象深い。
作業場での仲間とのひと休み、奥様方や子供たちのむじゃきな笑顔。最盛期には約3800人もの
人々が暮らしていたという標高750mの山中の共同体は、職場の同僚というよりもう皆が家族の
ような関係だったに違いない。


東平ツアーを堪能して端出場へ戻り、さて町へ下りようと思うがバスがない。
朝からバスの時間に縛られ時間を無駄にしてきたし、これ以上もったいないので歩いて下ることにする。

続く。

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