大阪のまち関連の定番サイト「十三のいま昔を歩こう」の新之介さんが主宰されている
「大阪高低差学会」の第1回フィールドワークに参加させてもらった。
暑いほどのいいお天気。
集合場所に行ったらすごい人だかりが・・・40名くらいか!?最初から圧倒された(汗)
私自身、大阪のまちなかを休日にカメラをぶら下げて歩くのは実に久しぶり!
天満橋から石町、大手通、法円坂、龍造寺町、空堀商店街、松屋町と、団体で歩き回り、
段差を上り下りして上町台地を体感した。
何度も歩いたことのある場所であったが、しばらく見ない間にずいぶん風景も変わった。
マンションが増えたなぁ。。。というのがいちばんの印象。工事中の現場や更地も多い。
しかし段差は健在。古い長屋がマンションに変わっても、前面道路はさわれないもんね!
道路はその場所の地形を忠実に見せてくれると同時に、土地の形質の変更を防ぐ砦の役割も
してくれているのだ。
東京と違って比較的単純な地形である大阪において、唯一特徴的な坂道景観を作り出している
上町台地。上ってしまえばフラットと思われがちだが実は台地の中でも意外と細々した谷があって、
特に銅座公園の辺りは深い谷が入り組んでいる。谷があるということは、水源地があったのだろうか。
そして、今回いちばん興味をそそられたのは、新之助さんのブログ記事「上町台地の大きな人工窪地」
にあった、空堀商店街の北側一帯のエリアが瓦製造用の土取り場だったために凹んでいるという話。
同ブログに掲載された「新OSAKA漫歩」の文章には、『寛永7年(1630)に徳川家御用瓦師
寺嶋藤右衛門が大阪拝領地として、幕府から南瓦屋町の地を頂き、その地が瓦土取場になり、
以来200年間瓦の製造 のために掘り続けた』とある。
その場所のことを「ノバク(野漠)」と呼ぶらしいが、その名の由来については、
『一面の野原でバクチ(博打)が流行っていたから「ノバク」説と、たくさんの人が野原に
幕を張って住んでいたので「ノマク」⇒「ノバク」となった』(空堀今昔エピソードマップより)など、
これまた漠としている。
空堀商店街の空堀が大阪城の南惣構堀として秀吉の時代に掘られた堀であるというのは、大阪の
常識として知っていたが、商店街の両側が下っているのは実は少し不思議な気がしていたのだ。
南惣構堀があったのは商店街の南側で、それも大阪冬の陣の後に埋められている。
どの程度埋めたのか、もとの地盤の高さまで完全にフラットにしたのかどうかは知らないが、
その辺りの南北方面の坂はいずれも空堀の名残なのだろうと漠然と思っていた。
ところが実は北向きに下る坂は、ノバクの底へ降りる坂だったのだ。
言われてみると坂を下りてしばらく平坦で、長堀通の北側でまた上り坂となっている。
新之介さんのブログの3D地図を見ると明らかにここの凹みは四角く人工的で、
通りに面した部分は建物が建っていたため元の地盤の高さで残っていることがわかる。
まさに現地もそうなっており、そういう目で改めてまちを見て歩くのはとても面白い。
空堀の一帯は元々上町台地の西端であり東西方向に勾配があるので、西から東へ向かって
台地の山側を削り取っていく方が掘り進めやすかっただろう。実際「すりばち状」と言うより
西端は窪んでおらず東へ行くほど崖が高い、言わば「ちりとり状」の窪みになっているように見える。
また、同ブログでは商店街の南側にも土取り場があったことが示されている。
ということは、空堀の跡と思っていた南側の凹みも、いったん埋めた堀を掘り返して土を取った
「ノバク」なのだろうか。しかし、冬の陣後に急いで埋められた堀を再び掘り返しても、
瓦の製造に適した粘土が得られたとは思えないが・・・?
いろいろ疑問が湧いてくる。大阪高低差学会の今後の研究に期待!?
久しぶりにお会いした人もおり、楽しいフィールドワークだった。
新之介さん、及び同行の皆さんありがとうございました!
「大阪高低差学会」の第1回フィールドワークに参加させてもらった。
暑いほどのいいお天気。
集合場所に行ったらすごい人だかりが・・・40名くらいか!?最初から圧倒された(汗)
私自身、大阪のまちなかを休日にカメラをぶら下げて歩くのは実に久しぶり!
天満橋から石町、大手通、法円坂、龍造寺町、空堀商店街、松屋町と、団体で歩き回り、
段差を上り下りして上町台地を体感した。
何度も歩いたことのある場所であったが、しばらく見ない間にずいぶん風景も変わった。
マンションが増えたなぁ。。。というのがいちばんの印象。工事中の現場や更地も多い。
しかし段差は健在。古い長屋がマンションに変わっても、前面道路はさわれないもんね!
道路はその場所の地形を忠実に見せてくれると同時に、土地の形質の変更を防ぐ砦の役割も
してくれているのだ。
東京と違って比較的単純な地形である大阪において、唯一特徴的な坂道景観を作り出している
上町台地。上ってしまえばフラットと思われがちだが実は台地の中でも意外と細々した谷があって、
特に銅座公園の辺りは深い谷が入り組んでいる。谷があるということは、水源地があったのだろうか。
そして、今回いちばん興味をそそられたのは、新之助さんのブログ記事「上町台地の大きな人工窪地」
にあった、空堀商店街の北側一帯のエリアが瓦製造用の土取り場だったために凹んでいるという話。
同ブログに掲載された「新OSAKA漫歩」の文章には、『寛永7年(1630)に徳川家御用瓦師
寺嶋藤右衛門が大阪拝領地として、幕府から南瓦屋町の地を頂き、その地が瓦土取場になり、
以来200年間瓦の製造 のために掘り続けた』とある。
その場所のことを「ノバク(野漠)」と呼ぶらしいが、その名の由来については、
『一面の野原でバクチ(博打)が流行っていたから「ノバク」説と、たくさんの人が野原に
幕を張って住んでいたので「ノマク」⇒「ノバク」となった』(空堀今昔エピソードマップより)など、
これまた漠としている。
空堀商店街の空堀が大阪城の南惣構堀として秀吉の時代に掘られた堀であるというのは、大阪の
常識として知っていたが、商店街の両側が下っているのは実は少し不思議な気がしていたのだ。
南惣構堀があったのは商店街の南側で、それも大阪冬の陣の後に埋められている。
どの程度埋めたのか、もとの地盤の高さまで完全にフラットにしたのかどうかは知らないが、
その辺りの南北方面の坂はいずれも空堀の名残なのだろうと漠然と思っていた。
ところが実は北向きに下る坂は、ノバクの底へ降りる坂だったのだ。
言われてみると坂を下りてしばらく平坦で、長堀通の北側でまた上り坂となっている。
新之介さんのブログの3D地図を見ると明らかにここの凹みは四角く人工的で、
通りに面した部分は建物が建っていたため元の地盤の高さで残っていることがわかる。
まさに現地もそうなっており、そういう目で改めてまちを見て歩くのはとても面白い。
空堀の一帯は元々上町台地の西端であり東西方向に勾配があるので、西から東へ向かって
台地の山側を削り取っていく方が掘り進めやすかっただろう。実際「すりばち状」と言うより
西端は窪んでおらず東へ行くほど崖が高い、言わば「ちりとり状」の窪みになっているように見える。
また、同ブログでは商店街の南側にも土取り場があったことが示されている。
ということは、空堀の跡と思っていた南側の凹みも、いったん埋めた堀を掘り返して土を取った
「ノバク」なのだろうか。しかし、冬の陣後に急いで埋められた堀を再び掘り返しても、
瓦の製造に適した粘土が得られたとは思えないが・・・?
いろいろ疑問が湧いてくる。大阪高低差学会の今後の研究に期待!?
久しぶりにお会いした人もおり、楽しいフィールドワークだった。
新之介さん、及び同行の皆さんありがとうございました!