伊豆大島の続き。
伊豆大島にやってきたのは船に乗りたかったこともあるのだが、一つ別の目的もあった。それがこちらの、旧甚の丸邸。
波浮(はぶ)港は旅客船の船着き場とは対極にあたる島の南端にある小さな集落で、元町港からバスで30分。
漁港沿いに一筋の細い道路が通りその両側に2階建ての建物が建ち並んでいる。呼子や下津井や鞆や御手洗や・・・
いろんな場所の港町で見るのとよく似た風景だが、まちなみはせいぜい150mぐらい。
港の背後には断崖が迫っていて付近には広い敷地はない。
甚の丸邸はどこだ・・・と、やはり背後の丘の上にあるのか。ひぃ~~(汗)
100段、いやもっとあったか。ヒイヒイ言いながら踊り子坂の石段を上ると、上は平たい台地になっていて、
家がいくつか建っていた。漁港沿いに建つ家々とは違って、門がありお庭のあるお屋敷だ。
蔵のあるひときわ大きな敷地を、大谷石の塀沿いにぐるりと回り込むと旧甚の丸邸の門があった。
南国情緒を醸し出す巨大なソテツの向こうに、主屋が建っていた。
うぉ~っ、壁いちめんなまこ壁じゃないか。しかし何だこの角度は!?
普通なまこ壁と言えば正方形の貼り瓦が水平に並んでいるか、又は45度の角度で並んでおり、それ以外の
角度で貼られているのは見たことがない。ところがここのなまこ壁と言ったら・・・30度ぐらいか?
貼り瓦は普通の灰色の瓦質のもので、四隅に釘穴がある。目地はかまぼこ型に漆喰が盛り上げられており、
少々雑な感じなのは修復時に予算不足だったのだろうか(苦笑)。しかし何でこんな角度なんだろう。
なまこ壁はだいたい防火や防水のためなので、瓦を貼らない壁や軒裏の部分も漆喰で塗りこめられていることが多い。
ここは2階は壁と軒裏までみっしり貼り瓦が貼られているのだが、1階の下屋は全く木造そのままだし
窓や入口付近も無防備な感じ・・・南国の木造民家になんだかそぐわず、不思議な印象・・・
開館時間よりも早く到着してしまったのだがもう開いていた。管理人さんはおらず、無料で自由に見学することができる。
作業場としても使っていたと思われる広い三和土の土間があり、頭上には太い梁が渡っている。並べられた鬼瓦は
葺き替え前のものだろう。
土間に面していろりの切られた部屋が1つ、その奥は表側と裏側とそれぞれ2間ずつ並んでいる。
分かりやすい「ハレ」と「ケ」の空間構成だ。
そしてこちら、玄関には、この通り瀬戸の本業敷瓦が敷かれているのだ!!ぽつぽつと間をあけて規則的に配置されており、
おそらく沓脱石の下にも1枚隠れていると思われるので、全部で11枚。
この柄は、台湾の旧台南庁長官邸の玄関に敷かれているものと同じだ。
そしてこちらは、実物はまだ見ていないが京都に同じ柄のものがあるらしい。いずれも型押しで模様をつけたあとに
呉須で着色したもので、明治中期以前のものと思われる。
この甚の丸邸は明治時代に建てられたと言われ、幕末の可能性もあるというが、詳しい建築年代は分かっていない。
外から玄関を入ったらこのように見える。
元の所有者の秋広氏は、波浮港を開港した秋広平六の子孫である。
もともと噴火口に水がたまった「波浮の池」と呼ばれていたものが大地震により海とつながり、小舟程度が出入り
していたのを、たまたま千葉から大島を訪れていた秋広平六が目にし、港としてのポテンシャルを見抜いて、
港口の開削を幕府に願い出、波浮港を開港した。それにより明治以降昭和初期まで、漁業の一大拠点として
全国から集まった漁船が港を埋め尽くすほどの賑わいを見せた。船の乗組員や観光客などで旅館も大繁盛で、
宴席では伊豆から来た踊り子が踊りを披露したというわけである。
後で訪れた資料館に展示されていた波浮港の写真。今じゃ全く想像もできない盛況ぶりだ。
秋広平六は網元として財をなし、他にも同様の網元が、この波浮港の高台に大谷石の石蔵を持つ屋敷を構えたのだとか。
建物の規模はそれほど大きくはないが、当時の島の民家とは全く違う造りであり、大谷石やなまこ壁ももともと
大島にはなかった。伊豆の職人に材料を持ち込ませ造らせた贅沢な屋敷である。
座敷にはちゃんとした床の間も備わり、床柱や落とし掛け、床框など、見るからに太くて良い材が使われている。
床脇の背後の木目の板も、1枚の幅は80cmぐらいはありそう。
美しい木目。
なお、甚の丸というのは屋号で、網元は皆何々丸という名を持っていたという。所有していた船の名前に
由来するのだろう。
そして座敷の裏手へ回るとお風呂場があった。しかし電気が点かないし窓には板が打ち付けられていて真っ暗闇・・・
浴槽はすでになく、単に一段低い土間の小部屋で、埃で真っ白・・・(汗)
それでも土間に降りて表面の埃を払うと・・・この敷瓦が現れた!!おぉ~~!!
玄関のタイルは知っていて見に来たのだったが、お風呂場のは知らなかった。本当に最初はその存在が全く
分からないほど埃をかぶっていたのだから、よく見つけられたものだ!なぜわかったかというと、入口近くに
置いてあったベロンベロンの解説ラミネートで、滲みすぎて太さが3倍くらいになっていた文字を(笑)
何とか解読して読んでいたら、お風呂場にも同じタイルがあると書かれていたのだ。
きれいに拭いておいたので、これから訪れる人は簡単に見つけられるだろう(笑)。
トイレには染付小便器と大便器がセットで残っていた!これは陶器製でなく磁器製らしい。陶器よりも高価であり
さすがお金持ちの家だ。
これらを全部船に乗せて運んできたわけだから、相当な手間と費用がかかっているはずだ。
しかし、30度のなまこ壁と瀬戸の本業敷瓦は、伊豆にあるのだろうか。下田はなまこ壁のまちなみが有名だし
他にもちょくちょくなまこ壁はあるようだ。伊東と河津までは行ったことがあるが、本業タイルは見かけなかった。
下田はまだ行っていないので、近いうちに行って探索してみよう。
この家には2階もあった。
天井裏のようだが広々した空間で、半分は船底のように梁がなく垂木が直接棟木に架かった構造。
もう半分は梁が渡っているのだが、薄い!!1階は太い梁が縦横に渡っていたが、2階は屋根だけだから
それほど太くなくてもいいのだろうか。
2階では養蚕が行われていたという。
お庭にはこんな石を組んだ池の跡もあった。水の少ない大島なので、元から枯れ池だったのだろう。
ミニチュアの橋が架かっていたりして、箱庭みたいでかわいい。
蔵も覗いたが、埃っぽくすぐに退散・・・(苦笑)。ちなみに蔵は近くにもう1ヶ所残っている(非公開)。
旧甚の丸邸は現在は大島町の所有であり、観光施設として30年ぐらい前から公開されている。
とても面白い建物なので波浮までわざわざ足を伸ばす価値あり。
このあと近くの東京梵天という店でモチモチのたい焼きを買う。そこは古民家をリノベーションしてあり、
宿もやっているという話だった。甚の丸邸のようなお屋敷だったのか??と興味がわいたが、
宿泊客がいたので見学はできなかった。。。
続く。
伊豆大島にやってきたのは船に乗りたかったこともあるのだが、一つ別の目的もあった。それがこちらの、旧甚の丸邸。
波浮(はぶ)港は旅客船の船着き場とは対極にあたる島の南端にある小さな集落で、元町港からバスで30分。
漁港沿いに一筋の細い道路が通りその両側に2階建ての建物が建ち並んでいる。呼子や下津井や鞆や御手洗や・・・
いろんな場所の港町で見るのとよく似た風景だが、まちなみはせいぜい150mぐらい。
港の背後には断崖が迫っていて付近には広い敷地はない。
甚の丸邸はどこだ・・・と、やはり背後の丘の上にあるのか。ひぃ~~(汗)
100段、いやもっとあったか。ヒイヒイ言いながら踊り子坂の石段を上ると、上は平たい台地になっていて、
家がいくつか建っていた。漁港沿いに建つ家々とは違って、門がありお庭のあるお屋敷だ。
蔵のあるひときわ大きな敷地を、大谷石の塀沿いにぐるりと回り込むと旧甚の丸邸の門があった。
南国情緒を醸し出す巨大なソテツの向こうに、主屋が建っていた。
うぉ~っ、壁いちめんなまこ壁じゃないか。しかし何だこの角度は!?
普通なまこ壁と言えば正方形の貼り瓦が水平に並んでいるか、又は45度の角度で並んでおり、それ以外の
角度で貼られているのは見たことがない。ところがここのなまこ壁と言ったら・・・30度ぐらいか?
貼り瓦は普通の灰色の瓦質のもので、四隅に釘穴がある。目地はかまぼこ型に漆喰が盛り上げられており、
少々雑な感じなのは修復時に予算不足だったのだろうか(苦笑)。しかし何でこんな角度なんだろう。
なまこ壁はだいたい防火や防水のためなので、瓦を貼らない壁や軒裏の部分も漆喰で塗りこめられていることが多い。
ここは2階は壁と軒裏までみっしり貼り瓦が貼られているのだが、1階の下屋は全く木造そのままだし
窓や入口付近も無防備な感じ・・・南国の木造民家になんだかそぐわず、不思議な印象・・・
開館時間よりも早く到着してしまったのだがもう開いていた。管理人さんはおらず、無料で自由に見学することができる。
作業場としても使っていたと思われる広い三和土の土間があり、頭上には太い梁が渡っている。並べられた鬼瓦は
葺き替え前のものだろう。
土間に面していろりの切られた部屋が1つ、その奥は表側と裏側とそれぞれ2間ずつ並んでいる。
分かりやすい「ハレ」と「ケ」の空間構成だ。
そしてこちら、玄関には、この通り瀬戸の本業敷瓦が敷かれているのだ!!ぽつぽつと間をあけて規則的に配置されており、
おそらく沓脱石の下にも1枚隠れていると思われるので、全部で11枚。
この柄は、台湾の旧台南庁長官邸の玄関に敷かれているものと同じだ。
そしてこちらは、実物はまだ見ていないが京都に同じ柄のものがあるらしい。いずれも型押しで模様をつけたあとに
呉須で着色したもので、明治中期以前のものと思われる。
この甚の丸邸は明治時代に建てられたと言われ、幕末の可能性もあるというが、詳しい建築年代は分かっていない。
外から玄関を入ったらこのように見える。
元の所有者の秋広氏は、波浮港を開港した秋広平六の子孫である。
もともと噴火口に水がたまった「波浮の池」と呼ばれていたものが大地震により海とつながり、小舟程度が出入り
していたのを、たまたま千葉から大島を訪れていた秋広平六が目にし、港としてのポテンシャルを見抜いて、
港口の開削を幕府に願い出、波浮港を開港した。それにより明治以降昭和初期まで、漁業の一大拠点として
全国から集まった漁船が港を埋め尽くすほどの賑わいを見せた。船の乗組員や観光客などで旅館も大繁盛で、
宴席では伊豆から来た踊り子が踊りを披露したというわけである。
後で訪れた資料館に展示されていた波浮港の写真。今じゃ全く想像もできない盛況ぶりだ。
秋広平六は網元として財をなし、他にも同様の網元が、この波浮港の高台に大谷石の石蔵を持つ屋敷を構えたのだとか。
建物の規模はそれほど大きくはないが、当時の島の民家とは全く違う造りであり、大谷石やなまこ壁ももともと
大島にはなかった。伊豆の職人に材料を持ち込ませ造らせた贅沢な屋敷である。
座敷にはちゃんとした床の間も備わり、床柱や落とし掛け、床框など、見るからに太くて良い材が使われている。
床脇の背後の木目の板も、1枚の幅は80cmぐらいはありそう。
美しい木目。
なお、甚の丸というのは屋号で、網元は皆何々丸という名を持っていたという。所有していた船の名前に
由来するのだろう。
そして座敷の裏手へ回るとお風呂場があった。しかし電気が点かないし窓には板が打ち付けられていて真っ暗闇・・・
浴槽はすでになく、単に一段低い土間の小部屋で、埃で真っ白・・・(汗)
それでも土間に降りて表面の埃を払うと・・・この敷瓦が現れた!!おぉ~~!!
玄関のタイルは知っていて見に来たのだったが、お風呂場のは知らなかった。本当に最初はその存在が全く
分からないほど埃をかぶっていたのだから、よく見つけられたものだ!なぜわかったかというと、入口近くに
置いてあったベロンベロンの解説ラミネートで、滲みすぎて太さが3倍くらいになっていた文字を(笑)
何とか解読して読んでいたら、お風呂場にも同じタイルがあると書かれていたのだ。
きれいに拭いておいたので、これから訪れる人は簡単に見つけられるだろう(笑)。
トイレには染付小便器と大便器がセットで残っていた!これは陶器製でなく磁器製らしい。陶器よりも高価であり
さすがお金持ちの家だ。
これらを全部船に乗せて運んできたわけだから、相当な手間と費用がかかっているはずだ。
しかし、30度のなまこ壁と瀬戸の本業敷瓦は、伊豆にあるのだろうか。下田はなまこ壁のまちなみが有名だし
他にもちょくちょくなまこ壁はあるようだ。伊東と河津までは行ったことがあるが、本業タイルは見かけなかった。
下田はまだ行っていないので、近いうちに行って探索してみよう。
この家には2階もあった。
天井裏のようだが広々した空間で、半分は船底のように梁がなく垂木が直接棟木に架かった構造。
もう半分は梁が渡っているのだが、薄い!!1階は太い梁が縦横に渡っていたが、2階は屋根だけだから
それほど太くなくてもいいのだろうか。
2階では養蚕が行われていたという。
お庭にはこんな石を組んだ池の跡もあった。水の少ない大島なので、元から枯れ池だったのだろう。
ミニチュアの橋が架かっていたりして、箱庭みたいでかわいい。
蔵も覗いたが、埃っぽくすぐに退散・・・(苦笑)。ちなみに蔵は近くにもう1ヶ所残っている(非公開)。
旧甚の丸邸は現在は大島町の所有であり、観光施設として30年ぐらい前から公開されている。
とても面白い建物なので波浮までわざわざ足を伸ばす価値あり。
このあと近くの東京梵天という店でモチモチのたい焼きを買う。そこは古民家をリノベーションしてあり、
宿もやっているという話だった。甚の丸邸のようなお屋敷だったのか??と興味がわいたが、
宿泊客がいたので見学はできなかった。。。
続く。