2019年秋の長岡の続き。
今回の旅は、燕三条で借りたレンタカーを上越で返却する予定の一方通行旅。
楽山苑でゆっくりしてしまったので、行こうか迷っていた目黒邸はパスし、貞観園へ向かうことにする。
広がる田んぼの真ん中を走るドライブは快適だが、昨夜は夜行バスの車中泊、1時間続けて走るのはちょっと疲れそう
なので、途中で休憩したいなぁと思っていたところ、沿道に「重要文化財 長谷川邸」と書かれた看板が目に入った。
重要文化財?チェックしていなかったけど、見るべきかな?検索してみると近世の古民家のようだ。
ちょうど通る道の途中だしちょろっと立ち寄ることにしよう。
堀と石垣に囲まれた敷地はまるでお城のよう!歩いていくと、茅葺屋根の豪壮な門が現れた。
家紋の入った幕が箔を増している。
長谷川家は戦国武士の流れをくむ名門旧家。代々庄屋を務めた豪農であり、近代には山村地主として栄えた。
現在の主屋は1716(享保元)年頃に完成したものと伝えられ、新潟県下の木造民家としては最古級だという。
来客用の新座敷は、1793(寛政5)年に建てられた。
門を入ると幅の広い通路がまっすぐ伸び、その正面に茅葺の大屋根を持つ主屋がどんと控えていた。
通路は途中で左へ分かれており、そちらへ行くと式台付きの立派な主玄関がある。近世の建物らしい、装飾控えめで
シンプルな玄関であるが、正面に立てられた衝立の墨書き文字のせいだろうか、身が引き締まるような風格が漂う。
左手にはこれまた重厚な杮葺きの中門があり、その向こうは庭園が広がる。
長屋門からまっすぐ進んだ正面は土間の入口である。
土間はとても広く奥まで続いている。庄屋の家では米を運び込む農民に対応するスペースとして土間が広い。
頭上を見上げると小屋組がすごい!梁は比較的細いが、縦横に何重にも組まれている。屋根裏までもう梁だらけ!
まるで五右衛門風呂のような巨大なかまど!大勢の使用人が住み込んでいたのだろう。
さて部屋の方へ上がろう。上り口から春慶塗で、この家の贅沢さをうかがわせる。
ガラスケースに展示されていた釘隠しが面白い!鶴のデザインでも、いろんな格好をしたものがあって、おそらく
部屋ごとに違うものが取り付けられていたのだろう。ここにあるのがオリジナルで、現在柱についているのは複製品だとか。
板の間には古いストーブが置かれていた。近世の古民家にストーブとは珍しい気がしたが、考えてみれば当然だ。
雪深く寒い地域の古い民家で暮らすのに囲炉裏や火鉢だけでは厳しい。近代になってストーブをいち早く導入したのだろう。しかしそれでも天井が高く気密性の低い部屋はなかなか暖まらないんじゃないかな。。。
「MITSUKOSHI」ロゴが入った氷冷式の冷蔵庫もあった。
さっき外から見た主玄関。
上段の間は、この主玄関から入った上級役人が通された部屋で、床柱はエンジュ、違い棚や付書院の棚板には
春慶塗の施されたケヤキ材が使われている。
仏間に鎮座する仏壇は1801(寛政8)年に作られた立派なもの。薬師如来が納められており、今も毎年
薬師講が行われているとか。
上段の間、玄関の間、仏間の天井は竿縁が床の間に垂直になっている「床差し」である。
床差しは縁起が悪い、というのは近代以降に言われだしたのであり、この建物が建てられた時代にはそのような
迷信(?)はまだなかったのだ。
トイレは、木製漆塗りのこんな殿様用のような便器だった。
近代和風のような華やかさはないが、良材をふんだんに使い、日本の素晴らしい建築技術を集めて精緻に作られた
民家は見ごたえがあり、ここでも米どころ越後の豪農のスケールの大きさが実感された。
休憩もできたし、さぁ一路貞観園へ向かおう。
続く。
今回の旅は、燕三条で借りたレンタカーを上越で返却する予定の一方通行旅。
楽山苑でゆっくりしてしまったので、行こうか迷っていた目黒邸はパスし、貞観園へ向かうことにする。
広がる田んぼの真ん中を走るドライブは快適だが、昨夜は夜行バスの車中泊、1時間続けて走るのはちょっと疲れそう
なので、途中で休憩したいなぁと思っていたところ、沿道に「重要文化財 長谷川邸」と書かれた看板が目に入った。
重要文化財?チェックしていなかったけど、見るべきかな?検索してみると近世の古民家のようだ。
ちょうど通る道の途中だしちょろっと立ち寄ることにしよう。
堀と石垣に囲まれた敷地はまるでお城のよう!歩いていくと、茅葺屋根の豪壮な門が現れた。
家紋の入った幕が箔を増している。
長谷川家は戦国武士の流れをくむ名門旧家。代々庄屋を務めた豪農であり、近代には山村地主として栄えた。
現在の主屋は1716(享保元)年頃に完成したものと伝えられ、新潟県下の木造民家としては最古級だという。
来客用の新座敷は、1793(寛政5)年に建てられた。
門を入ると幅の広い通路がまっすぐ伸び、その正面に茅葺の大屋根を持つ主屋がどんと控えていた。
通路は途中で左へ分かれており、そちらへ行くと式台付きの立派な主玄関がある。近世の建物らしい、装飾控えめで
シンプルな玄関であるが、正面に立てられた衝立の墨書き文字のせいだろうか、身が引き締まるような風格が漂う。
左手にはこれまた重厚な杮葺きの中門があり、その向こうは庭園が広がる。
長屋門からまっすぐ進んだ正面は土間の入口である。
土間はとても広く奥まで続いている。庄屋の家では米を運び込む農民に対応するスペースとして土間が広い。
頭上を見上げると小屋組がすごい!梁は比較的細いが、縦横に何重にも組まれている。屋根裏までもう梁だらけ!
まるで五右衛門風呂のような巨大なかまど!大勢の使用人が住み込んでいたのだろう。
さて部屋の方へ上がろう。上り口から春慶塗で、この家の贅沢さをうかがわせる。
ガラスケースに展示されていた釘隠しが面白い!鶴のデザインでも、いろんな格好をしたものがあって、おそらく
部屋ごとに違うものが取り付けられていたのだろう。ここにあるのがオリジナルで、現在柱についているのは複製品だとか。
板の間には古いストーブが置かれていた。近世の古民家にストーブとは珍しい気がしたが、考えてみれば当然だ。
雪深く寒い地域の古い民家で暮らすのに囲炉裏や火鉢だけでは厳しい。近代になってストーブをいち早く導入したのだろう。しかしそれでも天井が高く気密性の低い部屋はなかなか暖まらないんじゃないかな。。。
「MITSUKOSHI」ロゴが入った氷冷式の冷蔵庫もあった。
さっき外から見た主玄関。
上段の間は、この主玄関から入った上級役人が通された部屋で、床柱はエンジュ、違い棚や付書院の棚板には
春慶塗の施されたケヤキ材が使われている。
仏間に鎮座する仏壇は1801(寛政8)年に作られた立派なもの。薬師如来が納められており、今も毎年
薬師講が行われているとか。
上段の間、玄関の間、仏間の天井は竿縁が床の間に垂直になっている「床差し」である。
床差しは縁起が悪い、というのは近代以降に言われだしたのであり、この建物が建てられた時代にはそのような
迷信(?)はまだなかったのだ。
トイレは、木製漆塗りのこんな殿様用のような便器だった。
近代和風のような華やかさはないが、良材をふんだんに使い、日本の素晴らしい建築技術を集めて精緻に作られた
民家は見ごたえがあり、ここでも米どころ越後の豪農のスケールの大きさが実感された。
休憩もできたし、さぁ一路貞観園へ向かおう。
続く。