Quantcast
Channel: まちかど逍遥
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1991

旧豪雪の館の夢

$
0
0
2019年7月の長野旅の続き。



さて、ランチ後にやってきたのは、私個人的には今回の旅のメインである。
10年前に志賀山文庫を見に来た時、すぐ近くに石組みの上に建つとても立派な和風の建物を見つけた。
当時は和風民家にそれほど注目していなかったが、たまたま目に入ったその建物の豪壮な佇まいに強く惹かれて、
ほぼ衝動的に入ってみたのだった。


当時、この建物は「豪雪の館」と名付けられ、民俗資料館として民具や調度品などが展示されていた。
吹き抜けの太い梁、スケールの大きな空間に圧倒されたが、何より、暗い台所の窓に嵌められた色ガラスの
幻想的な光が強烈なインパクトで、それまでの私の中の「民家」のイメージを覆したのだった。
そしてさらに、お風呂場やトイレには、丸や桜、三日月型の小さなかわいらしい染付タイルがあったのだ!
そして、マジョリカタイルも!和風の民家にタイルや色ガラスが使われていることに気づいたのはこの時
初めてだったかもしれない。
その時見た染付タイルはその後、瀬戸の磁器タイルだろうということがわかったのだが、ずっと頭の片隅に
残っており、いつかもう一度見に行きたいと思っていたのだった。


その豪雪の館が少し前からレストラン穂垂(ほたる)亭になっていることはネット情報で知っていたので、
今回ランチの予約をしようと電話したのだが、団体用のレストランのため少人数の予約は受けていないと。。。
ランチは諦めたが、店の運営会社や建物の管理会社にいろいろ問合せ、見学のアポイントを取ったのだった。

緩やかな勾配の大屋根の妻壁に格子状の梁を見せた幾何学的なデザイン。そのモダンな美しさには息を飲むほど。。。

メインシーズンの冬以外はほぼ休業中のようで、担当者がわざわざ車で来て鍵を開けてくれた。
中に入ると・・・おぉ・・・ずいぶん印象が変わったな。。


あの色ガラスは・・・・あぁ、あった。台所はレストランの厨房になっていたが色ガラスはそのままだ。よかった。。。
しかし厨房設備があるので近寄ることはできなかった。


太い大黒柱や50cmぐらいの高さの鴨居、幅7~80cmあるだろうかという天井板など、豪壮な造りは以前と
変わらないが、吹き抜けの広間とそれに続く座敷は、建具が外されフローリング床のテーブル席になっていた。
畳や建具を戻せば元の姿になるのだろうが・・・ちょっと複雑な心境。。




梅の花が描かれた座敷の欄間や、上段の間の床の間や書院はそのままだった。




そして、廊下を奥へ進んでいく、、、、
トイレとお風呂場のタイルが健在であることは事前に確認してもらっていたので、何とか心の平静を保てていた。
あぁ、あった!!トイレの床の染付タイルは10年前に見たときのまま残っていた。


あぁ、10年ぶりの恋人に遭ったような気分・・・


蓮の葉と花を描いたこの構図や、上の写真の三日月形のタイルのグラデーションを生かした風景画など、
名のある絵師が描いたのではと思わせる。これらは明治後期ぐらいか。

小さな桜型や三日月型の染付磁器タイルは、亀山の舘家住宅のお風呂に同じようなのがあって驚いたのだった。
⇒「旧舘家住宅のタイル

これはちょっと色がにじんでいる感じだが・・・乾式のマジョリカタイルだろう。
だとしたら、1908(明治41)年頃以降。


便器もまた立派な染付の品だ。明治後期の瀬戸製のものに似ている。


明治末か大正のはじめ頃に水まわりを改装したということだろうか。


そして隣の浴室は、、、一部が隠れてしまっているが、こちらも確認できた。あぁよかった・・・
建物の無事、タイルの無事を確認できたことは本当によかった。
ただ、お風呂は2ヶ所あったのだったが、厨房に隣接する広い方のお風呂を確認するのを忘れており痛恨(悔)。


帰ってから写真をじっくり見ていると、このマジョリカ風のタイルは実際古いものか復刻品なのかよく
わからなくなってきた。チューブライニングが甘いし、彩色がちょっと稚拙な気もするし、、、
現代のレプリカだときれいにできすぎているので大体見分けがつくが、30年前のレプリカだと(いい意味で)
稚拙で味わいのあるタイルを作ったかもしれない。


考えてみると、床に貼られていたのなら剥がすときに割れた可能性も高い。割れたタイルから直接型を取って
作ったとか、そういうこともあったかもしれない。


タイルはオリジナルか復刻品か。また配置も、もとの状態をどの程度忠実に再現したのだろうか。
建物が新潟県にあった民家を移築したというのは当時から知っていたが、この家の所有者は誰だったのか、
その邸がいつどういう経緯で移築されたのか、詳細を知りたいと思い、帰ってからもいろいろ調べてみた。
建物を所有する志賀高原リゾート開発に問い合わせ、入手した当時の竣工記念冊子から、元の持ち主は
十日町市松之山の村山新一氏だったことがわかった。新潟で村山氏といえば名家である。
2017年に雪輪型の染付敷瓦や古い印花文敷瓦、珉平焼の流れをくむ淡陶の古い湿式マジョリカタイルなど
大量のタイルをバックヤードで発見した大棟山美術博物館は、もともと村山家の本家の邸宅だった。
また、新潟の北方文化博物館(豪農の館)は村山家と親戚関係にあったといい、そこの湯殿にもめくるめく敷瓦がある。
新一氏は分家筋だという。村山家の関係で3件、貴重なタイル物件があるとは!よほどタイルに縁があったのだな。


この建物は江戸安政年間(1850年頃)の築と考えられている。先述の冊子には、移築の経緯も書かれていた。
資料館設立の発起人の山本内藤氏という人が、たまたま松之山で見かけた荘厳なせがい造りのこの館に惚れ込み、
請い願って建物を譲り受け、1986(昭和61)年に現地で解体、「文化の郷」として売出し中だった上林温泉の
長野電鉄所有地を借りて移築、1987(昭和62)年4月、民俗資料館「豪雪の館」としてオープンしたという。

しかし、移築前の建物はどんな状況だったのか?移築にあたり記録は残していないのか?

村山家本家や役所関係にも関連情報を聞いたり、当時施工した会社にも連絡を取って移築前の現場写真など残って
いないか尋ねてみたが、志賀高原リゾート開発社が持っている以上の資料は何も残っていないとのこと。
若い頃工事に関わったという現社長は、使えるものは全て使うという大前提があった、と話して下さったが、
もう30年以上も前のこと、個別のタイルについてなどは覚えていないということで、それ以上は分からなかった。


豪雪地帯の風土に適合させ先人がつくりあげてきた居住空間や生活道具など日本の素晴らしい伝統文化を
将来に伝え、地域文化の向上にも役立てたい・・・・布張りの立派な装丁の竣工記念写真集からは、移築当時
この建物の活用に大きな夢を描いていたことがひしひしと感じられる。
バブル期にオープン、そして時代が移り、志賀山文庫と同様、純粋な資料館としてこの大きな建物を維持する
ことはもう難しくなっていたのだろう。建物を維持するため営利施設として活用されるのも当然の流れ。
それでもなかなか厳しそうに見える。
しかし、移築されていなければ、人が住まなくなった家は解体されてしまっていたかもしれない。
この地に移築された運命が正解だったと思いたい。

当時の関係者の熱い思い、建物を永久に残せればと願って住まいを譲渡したであろう元所有者の思いを
何とか受け継ぐべく、より良く活用されればと心から願う。

2009(平成21)年訪問時の記事 ⇒「豪雪の館の染付タイル

続く。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1991

Trending Articles