2020年2月の平川家住宅からの続き。
田篭のくどづくり平川家住宅を見学したあと、またくねくね道を戻りながら走っていると、おや、あれは何だ!?
急いで車を停め戻ってみると、道から少し降りて行った川沿いに、下見板張りの洋館が建っていた。
うぉーーっ、こんなところに洋館!?
屋根まわりが何となく和風な印象もあるが、看板建築とか洋館付住宅とかではないという意味で本格的な洋風建築に見える。
ちょっとタダモノではないぞ。。。
入母屋屋根の総二階建ての背高な建物で、正面に出っ張った玄関がついた形だ。
大屋根の破風板の下にはルーバー付きの六角形の通風口がちらりと。鬼瓦にはマークが入っているな。家紋か屋号か?
道路からは約1階分低いところに建ち、反対方向からは裏側に続いている和館しか見えないので、行きしなは気づかなかったのだな。
洋館はペンキ塗りだが和館はナチュラルカラー。
所有者の方がおられたので聞いてみると、1922(大正11)年に建てられた、もと平川病院だという。
平川?平川ってくどづくりの?と思って尋ねたが、直接は関係ないそうだ。
しかしまだ自動車も普及していない大正時代に、山あいの暗い道を歩いてきて、こんな瀟洒な洋館が目の前に現れたら・・・
最先端の医療でどんな病気でも治してもらえると絶大な信頼を寄せるに違いない。医者は今よりずっと特別な存在だったのだろうな。
玄関先をちらっと見せて頂いたのだが、何と驚いたことに玄関は三和土の土間で、その奥は和室だった!
土間は奥行1間半ほど。上がり框などはなく、そこから50cmほど上がっていきなり和室が始まっている。
町家の土間から部屋へ上がるところのような感じかな?
い草の上敷きが敷かれていたのでその下が畳かどうかは不明だが、漆喰壁に長押が回っていて棹縁天井の、ごくごく普通の和室。
もしかすると途中で改修されているのかもしれないが、、、中にいるとここが洋館だとは信じられない。驚いたなぁ!
ただし両翼の部分は洋室のように思われる。左側が診療室だったのではないかな。ま、見ていないので外観からの想像だが。。。
田舎の山道にいきなり現れたザ・洋館。あぁ、見つけられてよかった!
チラッとだけでも中を見せてもらえてラッキーだった。ありがとうございました~~
そのあと日田へ戻りがてら、行徳家住宅も見ていこう。
大分県西部に見られる曲屋形式の民家で、平川家と同じくこちらも国の重要文化財。
行徳家は代々久留米藩主有馬氏に仕えた藩医であり、1939(昭和14)年までここで営業していたとか。
この建物は1842(天保13)年に建てられた。大屋根は茅葺きだが下屋は瓦葺になっている。美しい立ち姿。
式台付きの立派な玄関を持つのはさすが藩医の家だ。
日常の玄関はその隣の障子張りの戸で、中へ入ると踏み込み程度の狭い土間。頭上には籠が吊るされていた。往診用だろう。
そこから奥の台所へと続いている。
復原工事を済ませているので内部はきれい。しかし、やっぱり暗い。。。(苦笑)
医者をしていたときの道具類や行徳家の資料がいろいろ展示されていた。
かまどはここでも板の間にくっついていて、土間に立たずに作業できる。やはり寒いからだろう。
ここも近世の民家なので装飾的な部分といえば組子の欄間と釘隠しぐらいだったが、良材が使われており、
鴨居や柱は面取りされている。
さぁそろそろ車を返しに日田駅へ向かおう。
もともとは、山越えドライブして中津で車を返し、JRで小倉へ戻る計画をしていたのだが、少し前に冷え込んでいたので
山道の凍結が怖くて、山越えせず日田から日田彦山線で帰ることに、直前に変更したのだった。
日田彦山線は風景が好きで何度か乗っているが、2017(平成29)年7月の九州北部豪雨により被害を受け、
今も添田~日田間が運休しており、存続が危ぶまれている。。。
往路、小倉から日田彦山線と一部連絡バスで日田入りするつもりだったのが、新門司港からのフェリー連絡バスが
小倉駅に到着するのが遅れたために、予定の列車に乗れずやむなく博多まわりで来たのだった。
なので、帰りにこのルートを使えるのはリベンジできてむしろよかった。
日田市内の道が混んでいて結構ギリギリになってしまい焦った。。。最後は走ってバス停へ(苦笑)。
日田駅前から乗ったJRの代替バスは、添田駅までほぼ日田彦山線の線路に沿って走る。
魅力的な木造駅舎と炭鉱の香りが残るまちがたくさんある日田彦山線沿線。
石原町、呼野、採銅所、香春・・・田川伊田、田川後藤寺・・・大行司、宝珠山、大鶴、夜明。。。
これまでに平成筑豊鉄道も併せて駅舎めぐりや乗り鉄、出張ついでに炭鉱の名残に浸ったりと、このあたり結構来ている。
(書いていない旅も多い・・・悔)
それだけに、鉄道のままの復活を願っているのだが・・・
バスは運休区間の彦山駅にも立ち寄った。線路も、朽ち果ててしまわないうちに、復活してほしいが。。。
鉄道は維持に莫大な費用がかかるだけに、一度廃止されたらもうほぼ永久に復活することはないのだ。
添田駅に到着。バスで通ってきたまちの中にいくつか気になる建物があった。また来ないと。
待機していた国鉄顔の気動車に乗りかえ、日田彦山線の車窓風景を楽しみながら小倉へ戻り、行きと同じ阪九フェリーの
「2等指定A」の個室で船旅を満喫したのだった。
あぁ今回も、行く先々で親切で気さくな人たちに出会い、素晴らしいものをたくさん見ることができ、充実した旅だったなぁ!
本当に、日本は素晴らしい!!
おわり。
田篭のくどづくり平川家住宅を見学したあと、またくねくね道を戻りながら走っていると、おや、あれは何だ!?
急いで車を停め戻ってみると、道から少し降りて行った川沿いに、下見板張りの洋館が建っていた。
うぉーーっ、こんなところに洋館!?
屋根まわりが何となく和風な印象もあるが、看板建築とか洋館付住宅とかではないという意味で本格的な洋風建築に見える。
ちょっとタダモノではないぞ。。。
入母屋屋根の総二階建ての背高な建物で、正面に出っ張った玄関がついた形だ。
大屋根の破風板の下にはルーバー付きの六角形の通風口がちらりと。鬼瓦にはマークが入っているな。家紋か屋号か?
道路からは約1階分低いところに建ち、反対方向からは裏側に続いている和館しか見えないので、行きしなは気づかなかったのだな。
洋館はペンキ塗りだが和館はナチュラルカラー。
所有者の方がおられたので聞いてみると、1922(大正11)年に建てられた、もと平川病院だという。
平川?平川ってくどづくりの?と思って尋ねたが、直接は関係ないそうだ。
しかしまだ自動車も普及していない大正時代に、山あいの暗い道を歩いてきて、こんな瀟洒な洋館が目の前に現れたら・・・
最先端の医療でどんな病気でも治してもらえると絶大な信頼を寄せるに違いない。医者は今よりずっと特別な存在だったのだろうな。
玄関先をちらっと見せて頂いたのだが、何と驚いたことに玄関は三和土の土間で、その奥は和室だった!
土間は奥行1間半ほど。上がり框などはなく、そこから50cmほど上がっていきなり和室が始まっている。
町家の土間から部屋へ上がるところのような感じかな?
い草の上敷きが敷かれていたのでその下が畳かどうかは不明だが、漆喰壁に長押が回っていて棹縁天井の、ごくごく普通の和室。
もしかすると途中で改修されているのかもしれないが、、、中にいるとここが洋館だとは信じられない。驚いたなぁ!
ただし両翼の部分は洋室のように思われる。左側が診療室だったのではないかな。ま、見ていないので外観からの想像だが。。。
田舎の山道にいきなり現れたザ・洋館。あぁ、見つけられてよかった!
チラッとだけでも中を見せてもらえてラッキーだった。ありがとうございました~~
そのあと日田へ戻りがてら、行徳家住宅も見ていこう。
大分県西部に見られる曲屋形式の民家で、平川家と同じくこちらも国の重要文化財。
行徳家は代々久留米藩主有馬氏に仕えた藩医であり、1939(昭和14)年までここで営業していたとか。
この建物は1842(天保13)年に建てられた。大屋根は茅葺きだが下屋は瓦葺になっている。美しい立ち姿。
式台付きの立派な玄関を持つのはさすが藩医の家だ。
日常の玄関はその隣の障子張りの戸で、中へ入ると踏み込み程度の狭い土間。頭上には籠が吊るされていた。往診用だろう。
そこから奥の台所へと続いている。
復原工事を済ませているので内部はきれい。しかし、やっぱり暗い。。。(苦笑)
医者をしていたときの道具類や行徳家の資料がいろいろ展示されていた。
かまどはここでも板の間にくっついていて、土間に立たずに作業できる。やはり寒いからだろう。
ここも近世の民家なので装飾的な部分といえば組子の欄間と釘隠しぐらいだったが、良材が使われており、
鴨居や柱は面取りされている。
さぁそろそろ車を返しに日田駅へ向かおう。
もともとは、山越えドライブして中津で車を返し、JRで小倉へ戻る計画をしていたのだが、少し前に冷え込んでいたので
山道の凍結が怖くて、山越えせず日田から日田彦山線で帰ることに、直前に変更したのだった。
日田彦山線は風景が好きで何度か乗っているが、2017(平成29)年7月の九州北部豪雨により被害を受け、
今も添田~日田間が運休しており、存続が危ぶまれている。。。
往路、小倉から日田彦山線と一部連絡バスで日田入りするつもりだったのが、新門司港からのフェリー連絡バスが
小倉駅に到着するのが遅れたために、予定の列車に乗れずやむなく博多まわりで来たのだった。
なので、帰りにこのルートを使えるのはリベンジできてむしろよかった。
日田市内の道が混んでいて結構ギリギリになってしまい焦った。。。最後は走ってバス停へ(苦笑)。
日田駅前から乗ったJRの代替バスは、添田駅までほぼ日田彦山線の線路に沿って走る。
魅力的な木造駅舎と炭鉱の香りが残るまちがたくさんある日田彦山線沿線。
石原町、呼野、採銅所、香春・・・田川伊田、田川後藤寺・・・大行司、宝珠山、大鶴、夜明。。。
これまでに平成筑豊鉄道も併せて駅舎めぐりや乗り鉄、出張ついでに炭鉱の名残に浸ったりと、このあたり結構来ている。
(書いていない旅も多い・・・悔)
それだけに、鉄道のままの復活を願っているのだが・・・
バスは運休区間の彦山駅にも立ち寄った。線路も、朽ち果ててしまわないうちに、復活してほしいが。。。
鉄道は維持に莫大な費用がかかるだけに、一度廃止されたらもうほぼ永久に復活することはないのだ。
添田駅に到着。バスで通ってきたまちの中にいくつか気になる建物があった。また来ないと。
待機していた国鉄顔の気動車に乗りかえ、日田彦山線の車窓風景を楽しみながら小倉へ戻り、行きと同じ阪九フェリーの
「2等指定A」の個室で船旅を満喫したのだった。
あぁ今回も、行く先々で親切で気さくな人たちに出会い、素晴らしいものをたくさん見ることができ、充実した旅だったなぁ!
本当に、日本は素晴らしい!!
おわり。